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「何が花のパリだ」と パリ訪問は通算すると十回ほどになる。何度かこの都市をテーマに随筆をものにしようと試みたのだが、書く気が起こらない。パリにはあまりにも多くの事柄が詰まっており、あまりにも多くのことが書かれているから、よっぽど心してパリを観察しないと、そこらにある旅行案内書と変わらない話ができてしまう。それに、私の新聞記者時代も含めて、パリを訪れるのは、なぜか二泊三日で、しかも国際会議の取材か、私自身が会議に出席する用事に限られており、ゆっくり観光したこともない。 だから、私のようなもの書きにとってはパリとは「ご縁の薄い街」であった。 わずかな思い出といえば、二十年前国際通貨・十カ国蔵相会議の会場となった旧ロスチャイルド邸の前で、張り込み取材中、理由もなくパリの警官に排除され警棒で殴られそうになったこと。そして、寸暇を見つけてルーブル美術館に出かけたら、入り口でヤクザの街頭写真屋に写真をとられ、「買え」「買わぬ」で公論しているうちに閉館になってしまったことなど、ろくな話はない。「何が花の都パリだ」だったのである。 今回(一九九九年三月)のパリも、二泊三日。 「国際市民社会論」などという雲をつかむようなテーマのシンポジウムのパネラーとしてであった。「国際市民社会」なんてこの地球上に存在し得るのか??。「山の彼方の空遠く幸い住むと人の言う……。しょせんは青い鳥の理想」ではないのか。そんな不届きなことを考えつつ会議の閉会が待ち遠しかった。実は、理想とは正反対の極にあるパリの「ああ、無情」の現実を訪れようと胸算用していたのだ。 私は外国を訪れるとき、できるだけその国の小説を一冊持参することにしている。現地のホテルで読むと臨場感が湧いてくる。今回はヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の第五部(佐藤朔訳、新潮文庫)を旅先で熟読した。なぜ、第五部かというと、主人公ジャン・バルジャンが警官に追われ、下水道の中に逃げる話が書かれているからである。セーヌ川の橋のほとりに、本物のパリの下水システムの一部を体験できるように、数年前から下水博物館と称するツアーが開設されたと聞いていたからだ。 パリのタクシー運転手は最近は英語を話す人が多くなった、というので通りがかりの車をつかまえた。やっぱり英語は通じない。フランス語で下水を何といってよいのかわからない。英語で「SEWER MUSEUM」といったのだがダメ。「UNDERGROUND WATER WAY」といったら「カタコンブ?」と答えがはね返ってきた。パリの地下は、地下鉄はもちろんのこと、牢獄、下水、地下運河、そして地下墓場など穴だらけだが、カタコンブは巨大な地下墓場のことだ。ようやくわかってもらって降ろされたのが、エッフェル塔と目と鼻の先のセーヌ左岸のアルマ橋のたもとだった。 『ああ、無情』を訪ねて パリの新観光ポイントとかで、十一時の開場前に三十人ほどの行列ができていた。ほとんどが外国人だ。切符を買って階段を七、八メート下る。下水のにおいがただよう。観光用だが下水それ自体は本物だからである。 「パリは地下にもう一つのパリ、下水道のパリを持っている。そこには街路があり、四辻があり、広場があり、袋小路があり、大通りがあり、泥水の往来があり、ないのは人の姿だけである」。一八六二年発行の小説、レ・ミゼラブルで、文豪ヴィクトル・ユーゴーはそう書いている。下水博物館は、四辻の広場を中心にのべ一キロ弱のコースだが、ユーゴーの叙述とおりの光景を経験できる。幅広の下水はボートが往来できる。エッフェル塔のできたパリ博(第一回世界万博)の際、着飾った万国の紳士・淑女が、箱舟で下水見物をしている絵葉書も売っていた。 フランス人は、ローマ文化の正統な継承者だと自認している。ナポレオン三世は、首都パリの近代化と美化をセーヌ県知事オスマンに命令した。美化の哲学は古代ローマの知恵に学べであった。下水道の整備と大改修もその一環として行われた。レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンが下水道に逃げ込んだのは、その数年も前だったが、それでもすでに「パリは地下にもう一つのパリ、下水道のパリがあったのだった」。 博物館には、セーヌ川の水を汲み上げて使い、汚物の混じった排水を道路に勝手に捨て、それが地下水となり再びセーヌに戻る十世紀のパリ人の時代。道路が舖装され、道路中央に満を掘り、それが四つ辻で地下に入り、トンネルをくぐってセーヌに戻る十四世紀の下水綱のパネルも紹介されている。 下水管理の難しさは、いかに汚泥でパイプが詰まらないようにするかだ。ヴィクトル・ユーゴーは小説のなかで、パリの下水綱は「地中に住む触角が千本もある暗黒の腔腸動物」と表現している。千本もある触角が詰まってしまったら、この腔腸動物は死に至るだけでなく地上の人間も死臭と細菌で死に絶えてしまう。下水幹線にセーヌの水を新たに取り入れるだけでは、“触角”の目詰まりは解決できない。 そこでパリ人は、苦心惨憺の末、小型の積雪排除車のような機器や、大小さまざまの木製のボールを開発した。地下博物館に実物が展示されていた。小さいのは直径五十センチ、大きいのは直径二メートもある。これを押したり引いたりして、汚泥を人力で移動させていたのだ。パリ人は道路の腕を一本延ばすたびにその下水道を一本造っていった。そして今日では全長二千百キロに及んでいる。新幹線で東京から博多に出かけ、折り返し浜松まで戻る距離だ。このトンネルには下水だけでなく、上水パイプ、電話ケーブル、作業員に酸素を送る圧搾空気のパイプ、速達用の真空式パイプもある。まさに世界一の下水網だ。 この博物館の切符売り場でくれたパリ市発行の英文の案内パンフは、外国人に不親切なフランス人が作成したものとしては、よくできていた。表紙にレ・ミゼラブルのフランス語版の挿し絵がある。ジャン・バルジャンが、傷ついた若き革命家マリウスを抱いて、マンホールから下水道に降りるシーンだ。「ジャン・バルジャンは気絶したマリウスとともに、なにやら地下の長い回廊のような場所にいる自分に気づいた。そこには深い平和、絶対の静寂、そして夜があった」??。この小説の一節までついている。最後のページには「あなたは、この都市の真下にある地下都市の見学を終わりました。さあ皆さん、真上にあるすばらしい都市、われわれのパリをお楽しみください」とある。あの無愛想なフランス人め、その気になればやれるじゃないか! 「豚足亭」からシャンゼリゼヘ このコマーシャルメッセージに触発されたわけでもないのだが、空港でもらったパリ市内地図とレ・ミゼラブル第五巻の日本語訳を持参しつつ、ジャン・バルジャンの逃走経路の地上散歩を試みたのだ。ジャンが潜入したマンホールは、セーヌ右岸の「中央市場」と小説にある。だがパリの中央市場は今はパリの郊外だ。旧中央市場はどこか。パリのレストラン案内で知ったのだが、日本の観光客がよく訪れる「ピエ・ド・コション」横の緑地がそれに当たる。日本語に訳せば「豚足亭」。昔、市場の出入り業者が通った二十四時間営業のレストランである。 ちなみにここは豚の足もさることながら、生ガキと生ウニがウマイ。ここから十分もセーヌに向かえばポンヌフ橋(新橋)に出るのだが、賢明なジャンは追っ手をまくために山側に行き、プロバンス通りの十字路(下水もそうなっていた)を左折し、オペラ座の北側を遡り、シャンゼリゼ地区の地下に向かった。 ユーゴーの小説では、この地区の地下は砂地だそうで、大雨によって足場が陥没し、危うく埋まりそうになる。でも私の歩いた地上は、ここからセーヌに向かってパリで最も華やかなファッション術路だ。フェラガモ、セリーヌ、ニナリッチ、ケンゾーetcありだ。意識不明のマリウスをかついで陥没穴を抜けたジャンは、「優しい白い光のさす出口を見たのだ……。パリ、広い地平、自由。右手の下流にはイエナ橋、左手の上流にはアンヴァリット橋があり、夜を待って逃げだすにはもってこいの場所」とユーゴーは書いている。 だが下水出口のアーチ型の門は鉄格子で閉ざされ、頑丈なカンヌキと錠前がかかっていた。出口なし、ジャンはここで苦悩の末、朽ち果てるのか? ここでどんでん返しがある。このあたりが文豪ユーゴーのストーリーテラーとしてのうまさで、偶然、下水出口に不法に住んでいたヤクザに出会い、有り金と交換でカギを開けてもらい外に出る。「無限の中に小さく、二つ三つの星が輝いていた」とある。小説で計算すると一八四八年六月六日正午から午後九時まで、ジャンはパリの地下都市をさまよった。一九九九年三月二十五日私の地上散歩は二時間。ピエ・ド・コション前から、ジャンの脱出口まで約六キロ、なんと終点は下水博物館のあるアロマ橋の対岸であった。
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