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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: お札サブレ?人が悪事を夢見る時が出番  
コラム名: 自分の顔相手の顔 348  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2000/06/28  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私は毎日ご飯を食べる飯茶碗にも湯呑にも、いささか気を配ってきれいなもので飲食したいのだけれど、夫はほとんど無趣味であった。大切なのはご飯そのものであって、茶碗ではない、という考え方である。
 しかし彼の七十歳の誕生日に、私はたまたま通りかかった陶器市で、茶碗を一つ千円で買って贈ることにした。招き猫が一匹、正面と後姿でついている。正面には「大入・商売繁盛」の文字も添えられていて、つまり全くくだらない俗悪趣味の飯茶碗なのである。
 夫は珍しく、その茶碗を愛好した。
 私たち夫婦は、あまり似ているとは言えないが、幾つかの点では一致していた。人がゴルフをやる時はゴルフをやらなかった。軽井沢に別荘を買う人が多かった頃、海辺へ逃げ出した。バブルの時にも投機的なことは、何一つしなかった。そうした下らない抵抗には、自分は自分という立場を保とう、という姿勢をできれば維持しようということだった。
 人よりぜいたくをする面も当然あるだろう。しかし人より質素な面もあって当たり前だ。人が欲しがるものと、私が欲しいものとは、違うのが当たり前なのである。
 先日、再び有田へ行った時、私は夫に二つ目の茶碗を買った。マンガのようなユーモラスな鬼の模様で、二つの眼が、一つは上目遣い、一つは下目遣い、とめちゃくちゃなものである。夫はこれも気に入った。
 「この茶碗を作った奴は、多分親方に怒られただろうなあ。もう少しまじめに売れそうなものを作れ、って」
 「売れたじゃない」
 と私は言った。
 「しかし、その店でもう五年も売れ残っていたのかも知れない」
 「でも絵はうまいわよ」
 「うまいから、もっと芸術的な絵柄を描け、っていうことになるのよ」
 夫と私は、下らないことで人生を笑い楽しんで来た。偉大な人やことがらに感動できるのも一つの才能だが、下らないことを楽しめるのも、やはり才能だと思うことにしよう、と決めていたのである。
 数日経った頃、今度は知人からお菓子を贈られた。私は、働いている日本財団から無給であるだけでなくボーナスも出ない。かわいそうだから代わりにこれを上げます、というわけだ。お菓子は、風月堂が作っている通称「お札サブレ」という西洋風瓦せんべいで、大蔵省の地下の売店でだけ売っている、という説もあるが、まだ確かめていない。とにかく一万円、五千円、千円に加えて、沖縄サミットを記念して売られる二千円札まである。
 ボーナス代わりの「お札サブレ」の贈り主は元大蔵官僚である。ほんとうは私がワイロとしてお札を箱に諾めて持って行く立場だが、持って行く理由もない。人は時に悪事を夢みる。しかしたいていの人は何も実行しない。その時がこのおいしい「偽札」の出番だ。
 



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