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一九九八年二月二十一日 午前十一時、マドリード文化センターに着く。マドリード州と日本民謡協会の日西民俗芸能文化交流大会の公演が行われるのである。切符はすべて無料で配ったが、あっという間になくなった由。出演者は日本各地から二百数十名、すべて手弁当でスペインまで来た人たちである。 日本大使・坂本重太郎夫妻、マドリード州のベガ商務消費局長、日本民謡協会側から理事長代行・菊池淡狂氏、理事長・三浦朱門が壇上に上がり、三浦が下手もご愛嬌のスペイン語で挨拶。 日本の民謡と踊りは、ほとんどが労働や収穫に関するもの。スペインのものは、男女の愛の話が主流で、カスタネットを鳴らしながら組で踊るのが多い。 人気があったのは、ギターと津軽三味線の即興合奏。この二つがこんなに仲好し楽器だったとは……。津軽三味線二十人近くの合奏の迫力も圧倒的だった。最後はフラメンコと日本民謡の美女たちが、いっしょに炭坑節を踊って客席にまで流れた。亡くなられた宇野千代さんにこの踊りを教えて頂いたものだ。私はこれでも水木流の名取だから(そう言っても誰も信じない)炭坑節くらいすぐ踊れる。すばらしく下手でも恥ずかしげもなく踊るところが名取たる所以なのである。 終わって大使館の方々とスペイン料理を頂きながら、文化の交流について、幾つかのヒントを受ける。 二月二十二日〜二十三日 正午、デスカルサス・レアーレスの修道院で歌ミサ。ここは王家の姫君がいた観想修道院だという。今でも世俗と連絡を絶った修道女たちがいる閉ざされた「尼寺」である。二階の格子の後から、日差しを受けて二、三人の人影がちらちらと動く気配がする。向こうから私たちは見えても、私たちが修道女の姿を見ることはできない。イベリア半島には、アラビア文化の名残のようなこうした建物の構造が残っている。昔リビアの田舎に行った時、民家の二階の唐草模様の煉瓦の隙間から、いくつもの眼玉が覗いていたのを思い出す。女性たちは男に顔を晒さないためにも買い物にさえ行かない習慣なので、格子の隙間から村にやって来たあらゆる人物や出来事を好奇心の塊になって覗くのだ。 ミサを歌う声は、しかし大して上手でもなく気品もない、おかしな感じ。 夕刻、イベリア航空でフランクフルト乗換えで帰国の途に就く。フランクフルトの飛行場があまり大きいので、移動に息を切らした。 飛行機の中では、まず三時間ほどぐっすり眠り、後はずっと携帯ワープロで仕事。寝不足で帰った方が時差が取れ易いという作戦。 空港で日本財団の柴崎総務部長と広渡広報部長に会い、都心までの車の中で連絡事項幾つか。レインポー・ブリッジの上で三浦が乗った車が横で合図を送ってくれた。幸い打合せも終わっていたので、近くのパーキング・エリアで三浦の車に乗り移り、財団の二人はすぐ職場に戻れた。 二月二十四日 八時半、出勤。 十時執行理事会。十一時評議員会。午後一時内部広報連絡会。関連財団の活動の状況や内輪話を直接詳しく聞いて広報に取り入れるための連絡会議を、月一度ずつ聞くことにしているのである。 三時、東京都庁で東京都土木技術研究所の講演。私が土木の世界の話をするのもほんとうはこっけいなのだが、現場に入って勉強し出してからもう三十年になるのだから、失敗談だけだってそうとう溜まっている。 帰りに海上保安庁。二月二十日に北海道恵山岬の沖で、第一管区海上保安本部函館航空基地所属のシコルスキーが海中に不時着水した。すぐ巡視船に救助されたにもかかわらず、海水の温度が低かったのだろう、三人が亡くなった。その方々への日本財団からの心ばかりのお悔やみを届けるためである。 海上保安庁の主な任務の一つは、荒天の海上で危険な救助作業をすることだ。三日に一度は出動要請があるというから、その三倍の回数は訓練のために必要だという。本来なら日本の国家が率先してどこかに慰霊の場所を作り、こうして社会のために犠牲になった人たちの名を長く留めるべきだろうと思う。 次官室で、海上保安庁職員が公務で犠牲になった場合のために、昭和五十四年から海上保安協会公務災害援護基金というものを日本財団が作っていたことに対してお礼を言われた。なのに私はその全貌をよく知らなかった。 殉職した方の数は今までに十四人。現在基金は七億円余になっているが、金利が低いから利子も大した額にはなっていないだろう。今度亡くなられた方の一人は、八歳を頭に零歳まで三人の子供さんがおられると言う。他の二人は妻と親を残した。胸が痛い。 霞が関からカテドラルヘ。手術後すっかり元気になられた白柳枢機卿にちょっとお眼にかかり、金井久神父を「拉致」して帰宅。三枝成彰さんとの「レクイエム」の最後の歌詞の打合せと監修に、神学と宗教音楽の専門家の金井神父に立ち合って頂くため。三枝さんが東京一おいしいコロッケを持ってきて下さった。
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