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古都に「一隅を照らす」 五月のゴールデンウイークの連休を利用して韓国の古都慶州(キョンジュ)を訪問した。日本流にいえば、ここは奈良の都である。だが奈良よりも古く、都としての歴史もはるかに長い。 BC五七年から九三五年までの約千年もの間、新羅(しらぎ)の首都であった。往時は百万人もの都人が住んでいたとかで、絢爛たる文化と政治の中心地であった。今日では人口二十五万の地方都市だが、韓国一の文化遺産の街であり、観光地である。「市全体が屋根のない博物館」と持参の旅行案内書には書かれていた。この仏教文化に彩られた古都の象徴は仏国寺である。 韓国も、“こどもの日”の連休とかで、修学旅行の高校生でごったがえしていた。この寺は李氏朝鮮の時代、壬辰(イムジン)の倭乱(文禄の役、一五九二年)で、焼失した。秀吉の朝鮮出兵の総大将加藤清正と、この寺に大本営を置いた明軍の総司令官ケイカイとの間で、大軍同士の激戦地となったからで、いまでは寺の一部が復元されている。 ところで、私の慶州訪問は観光ではなかった。だが、あらかじめこの古都の鳥瞰図を頭に入れておきたかったので、名刹、仏国寺を経由して、標高七百四十五メートの吐含山(トハムサン)の山頂近くにある韓国の国宝石窟庵(ソクラム)に出かけたのである。展望台からさして広くもない慶州は一望のもとにあった。「慶州に青山多し」といわれるが、望遠鏡の視界には緑の古墳らしきものがいくつも見える。寺や、城跡も見える。まさに千年の古都のたたずまいがそこにあった。 「秀吉もアホな事を妄想したもんだ。朝鮮に攻め、中国に入り、京都を明国に遷都する。荒唐無稽の遠征でとんだとばっちりだったのは平和に暮していた朝鮮の人。さぞかし、度肝を抜かれたに違いない」 隣の望遠鏡を操作しつつなにやら探していた文(ムン)さんが、そう言う私の言葉に苦笑しつつ「アッ、見えますよ。ホラ。南川に沿ったアパート群と塔の中間ですよ」と叫んだ。朝鮮風の古風な瓦屋根の三階建二棟と、教会のチャペルらしきものが視界に入る。その建物群こそ、私の旅行の目的地、古都慶州の「一隅を照らす」社会福祉法人・ナザレ園であった。仙台の医療専門学校に三年留学し介護の資格をもつ若い文さんは、そこの職員の一人である。 ナザレ園は一九七二年、仏国寺から車で十五分ほどのこの地に北鮮の羅津生まれの韓国人、金龍成(キム・ヨン・ソン)氏によって設立された。「帰国者寮ナザレ園」という名の“日本人妻”の収容施設であった。日本統治時代に朝鮮人と結婚し、日本の敗戦後夫と死別、もしくは離ればなれになり、帰国しそびれた日本人妻が当時千五百人以上いたという。金氏がこの施設をつくったきっかけは、忠清南道の大田刑務所に収容されている日本人妻二人に面会したことに始まる。設立一年前の話である。 「キリスト教信者の日本人・故菊地政一さんと刑務所を訪ねました。一人は寝たきりの夫をかかえ一家心中を図ろうと家に放火した罪で、もう一人は生活苦ゆえに米を盗んで収監中の日本人妻でした。私は身元引受人として責任を負うことにして、内務省にお願いをしたところ、釈放になりました。それが、私が一九五〇年以来、この地でやっていた社会福祉施設に日本人を迎えることのおこりです」。金氏はこう語った。 当時の韓国の対日感情は、今よりもはるかに厳しかったことは想像に難くない。「韓国の老人でさえ道端で野宿している人がたくさんいて、十分保護されていないにもかかわらず、なぜ日本人をかばうのか」とか「解散しなければ、力ずくでつぶしてみせる」と、棍棒をたずさえた韓国青年団の激しい抗議行動もあったという。 金龍成氏と故笹川良一 慶州のナザレ園。そこに今回なぜ私が訪問したのか。それにはいささかのいきさつがある。一九七九年、日本財団(船舶振興会)の創立者である故笹川良一氏は韓国を旅行した際、金氏の義挙に強く心を打たれ、施設の建設資金を全額寄付した。そして二十一年後のいま、老朽化した建物の建て替えのための資金を再び財団がお出しした。その起工式に私が出席するためだったのである。 故笹川氏の資金提供で、行き場のない日本人妻のホームが出来てから、ナザレ園の存在は「憤懣心やる方のない朝鮮民族の中に置き去りにされた国際迷子の日本人妻たち」として、韓国の新聞にも少しずつ報道されるようになった。だが、日本ではほとんど知られていなかった。その存在を広く日本に紹介したのは、作家・上坂冬子氏であった。慶州の観光旅行中、「たまたま日本人のおばあさんばかりの収容施設がある」と聞いてここを訪ね、『慶州ナザレ園・忘れられた日本人妻たち』(中央公論社・一九八二年刊)を出版したのである。 「大日本帝国の時代に植民地の男と結ばれ、敗戦を機に本人の全く意識せぬままに大韓民国の男性と国際結婚した結果となった上、やがて韓国内に吹き荒れた反日思想におびえ、つづいて朝鮮動乱の戦火で夫や子供を亡くしたという孤老の日本人妻が、いま新羅千年の歴史の眠る古都でひっそりと一団となって生きているのである」。上坂氏はそう書いている。 金氏の話では、上坂氏が定義する“孤老の日本人妻”が、まだ韓国のどこかに四百人は存在しているという。私が訪ねた時は、この施設に十人しかいなかった。改築のため他の施設や在宅で面倒をみているからだという。十人のおばあさんたちは、「ひっそり」と暮らしてはいるが、暗くはなかった。むしろ、快活で明るかったといった方がより正確であろう。 「ここは、韓国の中の日本という小さな空間です」。金氏の後継者でナザレ園長の宋美虎(ソン・ミ・ホ)女史が、上手な日本語、それもほとんど文学的ともいえる表現でそう言った。彼女はもともと日本の大学留学志望で、おばあさんのお世話をボランティアでやりつつ、日本語を学習しているうちに、ここに居ついてしまった。もう十八年になるという。独身を貫き通している。 「汝の敵を愛した」人々 「園長先生、美人でいい女でしょう。気がやさしくて、頭もいいよ。それが私たち日本人のせいで、嫁にも行かないで……」とリーダー格である七十六歳の活発なおばあさん、宋さんは、感極まって泣き出した。私には、「愛染かつら」や「ふるさと」を皆んなで歌ってくれた。「兎追いしかの山……、忘れ難きふるさと」。一緒に歌っているうちに涙がにじんできた。ここのおばあさんたちは、人を泣かせる名人でもあった。 「ここに入ってみて私よりもっと苦労した人がいることがわかった。ここは天国です。日本に帰国した人も、またここに帰りたいと言ってくる」。もう一人のおばあさんがそう言った。過去の不幸を嘆く涙が乾いてしまったというよりむしろ日本にはなく、韓国で得られた老後の幸福。それ故にこそ日本人妻たちは、いまは泣かないのであろう。 私はお涙頂戴の身の上話をこちらからはことさら聞かないように心がけた。それでも運命といおうか、因縁といおうか。「事実は小説より奇なり」の話があった。そのひとつ。一年ほど前、ここに入った七十七歳の“孤老女”の例。彼女は韓国人の夫に死に別れて、三十年。友人とともにソウルで小さな洋品屋をやっていた。だが大手術を必要とする難病にかかり貯金を使い果たした。手術は成功したが働くことは無理な体になり、自殺を決意した。韓国の名勝、雲岳山に行き農薬自殺を図ったが、不成功だった。 彼女は病院に運ばれ助かったものの、韓国には外国人に対する医療や生活扶助の制度はない。困り果てた医師は、あの金嬉老元無期囚が帰国後ただちにナザレ園を訪問したニュースを、たまたま韓国のTVで見たのを思い出した。そして、彼女はナザレ園に迎え入れられた。金氏なかりせば、彼女の幸運な今日はなかったという因縁話である。 なぜ、金氏は、ナザレ園を訪れたのか。「俺は日本人を嫌いなのではなく、韓国人を嫌いな日本人を憎むのである。その点、ナザレ園の日本人妻たちは韓国人である夫を愛してくれた。だから俺は、感謝するためにやって来た」と彼は語っていたという。 日韓の不幸な関係の中で新羅の古都の一隅に展開した人間ドラマ。舞台は小さいが、テーマは偉大である。その演出者であり、主役でもある金龍成氏の父君は、日本の植民地時代朝鮮独立運動家で日本の官憲の拷問を受け、刑務所で獄死した。金氏は政治ではなくキリスト教信者への道を選んだ。しかし聖書にある「汝の隣人を愛する」ことはできても「汝の敵を愛する」ことを実践した人にお目にかかったのは、初めてである。その意味で私の慶州行きは、人間とは何かを知る貴重な体験旅行であった。ちなみに「ナザレ」とは、キリストの母マリアとその夫ヨセフの生まれた場所、つまり偉大なる故郷とのことである。
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