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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 赤ちゃん?安心してお産したのに  
コラム名: 自分の顔相手の顔 321  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2000/03/28  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私が週末に行く海の家でこの春初めて、ウグイスが鳴いた日、私たちは庭先で一匹のタヌキと鉢合わせした。タヌキは私たちの四、五メートル先で、逃げもせず私たちをじっと見つめていた。こういう出会い方をしたのは、私がここへ住むようになってから三十年の間に二度目である。
 タヌキは元気がなかった。その理由は尻尾の下から、血の色のついた長い袋のようなものを垂らしていたからで、その日そこにいた客は、あれは脱肛だと思う、と言った。かわいそうに人間なら、すぐ病院で何とかしてもらえるはずだが、タヌキは内臓を引きずったままいるのだろうか。そのうちに感染症にかからないだろうか、と私は暗澹とした。タヌキが私たちをじっと見ていたのは、捕まえて獣医に連れて行ってください、と訴えていたのではないかとさえ思えた。
 ところが、その翌日のことである。
 私はここのところ、自分が今よりさらに老化する日のことを考えて、家の中を片付け、空間だらけにしておこうとしていたのだが、数カ月ほったらかしにしていた押入れの天袋を開けて驚いた。
 中は落花狼藉だった。古新聞、予備のティッシュ・ペーパー、紙皿、発泡スチロールの箱などは食い千切られ、引き戸を開けるやいなや破片がこぼれ落ちるほどに詰めこまれていたのである。
 「何これ!」と言うのがやっとだった。何が起きたのかわからない。とにかく押入れ全部中身を掻き出してきれいにしなければ、というので踏み台で作業を始めてみると、中で何やら蠢くものがある。
 体長は八、九センチ、黒っぽい毛が生えていて眼もまだ見えない赤ん坊は全部で四匹。親子関係を見極めたわけではないが、まちがいなくあのタヌキの子供である。ジィジィ、とキイキイの間のようなよく透る声で鳴くが、お母さんは一向に姿を見せない。あの長い袋のようなものは脱肛ではなく、出産直後の胎盤だったのだろう。
 タヌキが天井裏に侵入した道は、まもなく屋根瓦が壊された付近で発見したのだが、せっかくきれいに掃除した天袋に再びこの子たちを住まわせるわけにもいかない。私は途上国へ行く度に、野生動物の持つ病気の怖さを叩きこまれている。外はトンビが常時舞っている土地だから、危なくて放りだすこともできない。夫は、「タヌキは夜行性だから、子供を助けに来るのは夜だ」と確信を持って言う。母親は、空き家だと思って巣を作った家でお産した夜、人間共が喧しくやって来たので、さぞかしびっくりして私たちに文句を言いに来たのだろう。
 私は早速ミルクを飲ませるスポイトを買いに行った。スーパーの薬局で、おねえさんが「何に使うんですか?」と聞くので「タヌキの赤ん坊なんです」と説明し「タヌキの赤ちゃん要りません?」と売り込んでみた。
 



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