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「人生の達人」といわれた三人の方の老いと死をみてきた。 哲学者の森信三氏は七月に夏かぜをひかれ、八月に意識不明となり、意識不明のまま、十一月に亡くなられた。九十五歳だった。京大元総長の平澤興氏は、その朝、ロータリークラブで元気に話をし、昼に疲れたといい、体調のすぐれない時はいつもそうしていたように、教え子が医者をつとめる京大病院に入院し、その深夜に息を引きとられた。八十九歳だった。碩学安岡正篤氏は、八十歳を前に、ある人をして、「あの碩学がかくも見事に老いるのか」と嘆息させたような老いを迎え、八十六歳で、その人生を終えられた。 どの老い方がよく、どの死に方がいい、というのではない。三者三様、それぞれに胸に迫ってくるものがある老いであり、死であった。 釈迦は生老病死を四苦といった。苦とは、どうにもならないもの、という意味である。どこに生まれるか、いつ生まれるか。我々はそれを選択できない。そして生まれた命は必ず老い、病み、死を迎える。これはあらゆる生命に課せられた宿命である。ならば、その四苦を背負って、どう生きるか。人間学の究極のテーマを反芻してみる。 当代きっての人気作家にして日本財団会長でもある曾野綾子氏は、 幼少時よりカトリック教育を受けた。 名編集者として長年親交を結んだ清原美彌子氏は、 仏教に深く傾斜している。 それぞれの精神世界を交錯させながら、お二人が縦横に語り合う、 その「老」と「死」??。 捨てることが上手になった 曾野 お久しぶりです。清原さんにね、このレタスをと思って家の庭から二株引っこ抜いてきました。庭といっても畳四枚ぶんほどの広さですが(笑) 清原 まあ、新鮮な野菜をどうもありがとうございます。かなり前ですが三浦半島三戸浜の先生の別荘に伺ったときのことを思い出しました。あのときも、前の畑で取れた新鮮野菜を頂戴いたしました。 曾野 お客さんが来られると、畑で取れた野菜なとで田舎の手料理をもてなすという、いたってケチな精神なんですが(笑)、まあそれだけでもなくできるだけ体を動かすようにしているんです。これから先の老いに対する“はかなき抵抗”とでもいいますか、一人で家にいるときも食事はちゃんと作りますし、また、手を抜かないようにするのが好きなんですね。自分でできることは自分でする、それも緊張感を持ってやるようにしています。 清原 本当に活動的でいらっしゃる。作家と日本財団の会長という二役を見事に両立なさって、しかも財団のお仕事はまったくの無給だそうですから、頭が下がります。 曾野 週のうち四日は小説家の生活をして、後の三日が虎ノ門(東京)にある日本財団のオフィスに出勤していますが、不思議なのよね、そういう生活になってから原稿を書くスピードが倍になりました。それと、もう一つは「捨てる」ことがうまくなりました。技術的には、やるべきことにプライオリティー・オーダー(優先順位)をつけて、四番目とか五番目など順位が低いのは、時間がなかったりすると平気で捨てちゃう。 清原 それは、一遍上人(1239?1289)の「捨ててこそ」という“念仏往生”の悟りに通じるのでは……。あるいは道元(1200?1253)の言う「放下」と言っていいかもしれませんね。放下とは、要するにこだわるなとか、一つの所に澱むな、濁るなということですね。つまり。この心を日常生活的に実践すれば、おっしゃる通りになる。ですから、逆にスピードも出るんですよ。 曾野 いえいえ、とてもそんな立派なことじゃありません。ただね、私は「人間は一度に二枚の服は着られない」っていうイタリアの人の言葉が気に入っているんですよ。自分に似合う服が仮に二枚あったとしても、一度に二枚は着られない。そのときは、どちらか一枚は捨てなきゃならないわけですから。私たちも何を捨てるかの選択に慣れないと、ね。 本当のことを言うと聞いた人は笑う 清原 初めて曾野先生にお目にかかったのは四十年ばかり前、ある女性デザイナーのパーティーでした。私は婦人雑誌の『主婦と生活』の一編集者でしたが、それからお付き合いいただくようになり、編集長に在任中は二回、連載をお願いしています。 曾野 私たちの関係は鵜匠と鵜、あるいは猿回しと猿なんですね。猿の次郎ちゃんのように喝采を博すのは猿であり鵜である作家ですが、編集者という鵜匠や猿回しにきっちり捌いていただいている。ときにはプライベートなことまでも、ご面倒をおかけして助けていただく。 ところが、いまは原稿のやりとりにしてもファックスとかEメールでしょう。そういうお互いの連携がなくなりつつあるのはとっても寂しいことです。 清原 従来ですと、とかく男は「理系」、女は「文系」というイメージがありましたが、曾野先生は両系をお持ちだし、いい意味で男っぽい。 曾野 よく言われます。本当に困ってしまうのよ、女らしくなくて(笑)。 清原 先生は他人が言わないキリスト教の隠された真理をずばっと表現なさる。これなどもなかなか男性的です。 曾野 それは、いい先生から『聖書』を学べたからだと思います。キリスト教は性悪説だから、私には気楽なんです。人間というものをそのままにしておけば簡単に堕落するという話が『聖書』にはいっぱいありますし、随分いいかげんな人物も登場しています。『聖書』はそれを踏まえて、人間は信仰とか、その人に内蔵された徳性によって人間を超えた偉大な存在にもなれる、としているんですね。 清原 日本財団でも、その性悪税をご開陳なさったとか……。 曾野 ああ、あれね。「仕事をするときは人を見たらドロボーと思いなさい」と、皆さんに言いました。びっくりしたようですよ。でも、日本財団はこの種の財団では世界一の規模で、大変なお金が動いています。競艇の売り上げが一日十億円あったとすると、三千三百万円が即座にうちに入ってくるわけで、人さまのお金をお預かりして使う以上は、絶対に人をドロボーと思って用心して大切に使わなければいけない、ということでお話しました。 清原 そういうどきっとすることを実にあっけらかんとおっしゃる(笑)。 曾野 「ドロボーと思いなさい」と言うと、みんな笑うんですよ。どういうわけか本当のことを言うと聞いた人は笑います。 深い闇を描くことで光を描く 清原 悪についても興味本位に取り上げておられるわけではない。先生は、「印象派の技法で言えば光そのものを描くことはできないから、深い闇を描くことで、光を描きたい」と言われているように、光を書くときには陰を書かなければならない、ということですね。 曾野 そうです。 清原 同じ論法の「不幸を知らなければ、幸福もわからない」とおっしゃる面も同感ですが、その点、いまの日本人はどうなのでしょう。少なくとも、世界的に見て幸福な状況にある点に気づかず、不幸なのだとカン違いしている面も相当あるようにも思うのですが。 曾野 いまの日本人は大事なことを忘れてしまっているのじゃないかと思うのです。むしろ、貧しいアフリカこそ、日本人の“偉大な教師”ではないでしょうか。 日本財団に「笹川グローバル2000」というのがありまして、農業改革をささやかに支援しています。アフリカのブルキナファソという国では、トウモロコシがたくさん取れるようになり、現金収入が得られるようになりました。あるとき、六人の子供を抱えた未亡人に私が聞いたことがあるんです。「お金が余計入るようになって、何がしたいですか」ってね。 電気も通っていない地域ですから「テレビを買いたい」という答えはなくても、「屋根を修理したい」とか、「自転車が欲しい」といった答えは予想しました。ところが大違いなの。未亡人は「六人の子供と私のために、お腹がいっぱいになるものを買いたい」と答えてくれました。そういう発想が、いまの日本人にあります? アフリカは、私たちがよって立ってきた原点をいつも突き付けてくれます。 清原 だから、アフリカがお好きなんですね。 曾野 自慢じゃないですが、その代わり支配層のことはまったくわかりません。財団の仕事では外国の大統領などとお会いする機会が多いのですが、ありがたいことに笹川陽平さん(日本財団理事長)が引き受けてくださっているので大助かりです。私もたまには要人とお会いしますが、立場上のことしかおっしゃらないから、話していてもおもしろくない。逆に田舎に住んでいるような貧しい人たちが、はっと胸を突かれることをおっしゃる。 辛さがわからなければ幸せもわからない 清原 日本という国について、だれかが「こんなに豊かでこんなにぜいたくでありながら、不況、不況と嘆き、そして人の心は満たされないという国は人類の歴史になかった」と言っています。私も最近、つくづくそう感じます。 曾野 本当にね、こんなに豊かでありながら、こんなに不幸感を持っている国……。 清原 北朝鮮の工作船の事件がありましたが、私は以前、「万が一、外国が攻めてきたらどうするか」と若い人たちに聞いたことがあります。すると、「カナダに逃げる」とか「ギブアップする」とか答えるのですよ。 問題は、どうやってカナダに逃げるのか、ギブアップすれば相手は許してくれるのかということ。「こちらに善意があれば、向こうも善意で応えるはずだ」と錯覚しているのだから、戦争というものの本質がわかっていません。 曾野 悪意がわからないと、善意がわからないのにね。 清原 陰がわからなかったら陽がわからない。辛さがわからなかったら幸せもわからない。それと同じなんです。 曾野 そう、そう。 清原 最新刊の『「いい人」をやめると楽になる』を読ませていただきました。「人はみな、あるがままでいい」とか、「幸せも不幸せも、その結果を人のせいにしない」とか、なるほどと思えることがいくつもありました。 曾野 どうもありがとうございます。 清原 歴史をたどると昔の日本人は「いい人」であることをやめようとしなかった。つまり恰好つけて生きていたと思います。武士道などがまさにそうでした。無理をして恰好つけて生きていましたね。 曾野 「武士は食わねど高楊枝」とか、「腹が減ってもひもじうない」とかですね。私にはとてもまねできませんが、「無理をする」、それもまた一つの美学だったんでしょう。 受けるよりは与えるほうが幸いである 清原 「こうせねばならぬ」とか「かくあらねばならぬ」の思想ですね。ところが、正直申しまして、私はそういう武士道精神が大好きなんでございます(笑)。『聖書』のどこだったか不明ですがノートに書き留めた言葉があります。それは「愛することは死ぬことである」という言葉です。アウシュビッツで死刑囚の身代わりになって殺されたコルベ神父を思い出しますが、これなども武士道の精神に近いのではないかと思ったりするのですが。 曾野 「友のために命を捨てる。それより大きな愛はない」という“一粒の麦”のことですね。つまり、他者のために自己を犠牲にする人のことです。 清原 私は「武士道は死ぬことと見つけたり」というのと関連づけていました。いまのご説明では違うわけですが、「死ぬこと」イコール「身を捨てる」という自己犠牲、利他の精神と、まったく無関係でもないようです。「命を懸ける」というのは洋の東西を問わず、人間の心構えとして非常に大事なことでしよう。 曾野 ところが、日教組などは「たとえ友のためだろうと、何のためだろうと自分の命を捨てるのは損である」というように教えてきたんですね。それが子供たちの心を貧しくさせたと思います。自分の命を懸けるものがあると人間は満たされます。 清原 おっしゃる通りです。 曾野 アフリカの奥地などで看護婦とか助産婦などになって働いておられる日本の修道会のシスターがいらっしゃる。私たちは「海外邦人宣教者活動援助後援会」というのを組織して、かなり以前から現地をお訪ねしているんですが、この前、コンゴ民主共和国(旧ザイール)に行こうとした直前に政変が起きまして、現地のシスターたちに日本の大使館が「危険だから全員引き揚げなさい」と勧告しました。 ところが、シスターたちはだれ一人引き揚げられませんでした。なぜなら死ぬようなことも自分たちでご承認ずみだからなんです。 清原 それはすごいことですね。 曾野 すごいことです。貧しいアフリカの人たちを救うという使命のために、初めから危険は覚悟していらっしゃる。聖書に「受けるよりは与えるほうが幸いである」というイエスの言葉があります。「満たされる」ということは「受ける」ということではなく、「与えさせていただく」ということなのですね。 病気と健康はコミの人生である 清原 「病」について個人的な体験を申し上げますと、六十二歳のときに乳がんになりまして、術後も後遺症による苦痛が加齢とともにひどくなっています。心臓も悪くしたものですから疲れてしまい、夕食後は横になって読書をするのがせいぜいという状態です。 曾野 痛みは取れないのですか。 清原 これは私の信念ですが、癒しの方法としては、むしろ辛いときは辛いことで痛みを制するようにする。あの猛烈に痛い棕櫚のタワシで全身をこすって、自分のつくる痛みで左半身の痛みを制するようにしているのです。 ただ不思議なことに、好きな書道と取り組んでいるときだけは痛みを忘れている。病中、老中、一技を持つことの大切さもしみじみと感じています。 曾野 病気についてしみじみ考えたというのは、ルルドに行ったときでした。ルルドという所は南フランスのピレネー山脈の麓の寒村ですが、一八五八年に土地の十四歳になる羊飼いの娘さんのもとにマリア様が現れ、ご命令通りに土地を掘ると素晴らしい泉が湧いた、と伝わっているんですね。 この泉の水を飲めば体にいいというので、治癒を願って世界中から病人たちがやってきます。 清原 もう何回ぐらい行かれているのですか。 曾野 毎年春、障害者の方たちと連れ立って十六回聖地旅行に出かけていますが、そのときにルルドに立ち寄ることもあるんです。ルルドでは、あすをも知れぬ病人たちが車椅子などで行列をつくり、ロウソクを灯してともに祈り、ともに歌を歌う光景があちこちで見られます。そういう独特の雰囲気があるのですが、あるとき、ふっと「病気と健康はコミの人生だ」と思いました。それほど、ここでは病人と健康なボランティアが寄り添って生きている。 清原 わかるような気がします。禍福も、結局はバランスによって存在する。私たちは小さな人間・個人の立場で幸せとか不幸とかを判断していますが、神の思し召しともいえる大自然の法則からすれば、病気も健康もバランスを取っているのですね。これに限らず、世の中のすべての事象は“循環”と“バランス”の大原則にのっとって動いているように思うのですが……。 曾野 だから、「賢い人間は健康をもっとも大きい祝福と考え、病気は思考において有益なことを考えるときだ」と、ヒポクラテスのように受け止めればいいと思うのです。 老醜はありて老美は辞書になし 曾野 体と心の関係について、もう少しお話したいと思うのですが、実は私、大学時代は授業も居眠りばかりしていたんですよ(笑)。あるときも、カンドーというフランス人の有名な神父様の授業中に眠ってしまい、ふと目が覚めたら神父様がこんなことをおっしゃっている。 「『健全なる精神は健全なる肉体に宿る』というのはウソです。健全な肉体ほど始末に悪いものはありません。健全な肉体の人は物事を深く考えようとせず、阿呆になります」。私は「ああ、なるほど、いいことを聞いたわ」と思いながら、また眠ってしまいましたけれど(笑)。 清原 大事なところだけは、ちゃんとお聞きになっている(笑)。 曾野 ただ、どうなんでしょう。若いときはなるほどと納得していたのですが、年を取って病気になったときは、「肉体が健全でないと精神が歪むのは本当なんだ」と思ったこともあります。 清原 そういえば、目をお悪くなさったのでしたね。 曾野 四十九歳のときに目を手術しました。その二年ぐらい前から視力が落ちまして、いつ見えなくなっても不思議でなかったのが、おかげさまでその後、十七年ほど視力をいただいています。 清原 京大の総長をなさった平澤興先生が、 今朝もまた覚めて目も見え手も動く ああありがたやこの身このまゝ と詠まれています。 曾野 まさにその通りですねえ。 清原 だれの作か忘れましたが、 老醜はありて老美は辞書になし 哀れなるかな老いというもの という歌があります。この歌を知ったのは若いころでしたから「愚痴っぽくていやだな」と思っていた。でも、最近はそうではなくて、努力すれば老美も可能だと思えるようになりました。 お年寄りの権利の復権を 曾野 老美とはちょっと違いますが、最初にも申したように、私は老いへの“はかなき抵抗”は続けたいと思っています。三年前の五月に墓参りに行って転び、右足の膝下の骨を縦と横に折ってしまい、踵も脱臼しました。折れ方がひどかったので、日野原重明先生が名誉院長をされている築地の聖路加国際病院で手術を受けたのですが、五日目に車椅子で京都に出かけました。 清原 まあ、すごい行動力! 曾野 あの病院では、先生方が「行きなさい、行きなさい」と言ってくださる(笑)。でも、ギプスはしていても、まだ腕力はありますから、手術後も看護婦さんの手を一切煩わせませんでした。顔を洗ったり、ちょっとした洗濯など、何もかも自分でできました。タオルが高い所に掛かっていたので「こんなときに“孫の手”があったら届くのにな」なんて思いながら、結構楽しんでいました。 清原 そういえば、四十歳のときに書かれた『戒老録??自らの救いのために』というロングセラーにも、他人を煩わせないという覚悟が第一で、「他人が何かを『くれる』こと、『してくれること』を期待してはいけない」。つまり、「人間は生きているかぎり、自分で生きよ」とございました。 曾野 いまね、高齢者の評判が悪くなっています。それは要するに「甘えている」ということです。 清原 権利のほうだけ主張して、「他人がしてくれること」につい甘える。元気でお金があって、自由に遊べる老人に、自治体がときに過剰とも思えるサービスをする。 この問題にちょっとかかわったことがあったので、そう感じることがあります。 曾野 それはむしろ、老人に対する“差別”です。お年寄りは「自立する権利」を復権させなければ駄目です。 清原 政治がテクニックとして福祉をとらえるからそうなってしまうんですね。人間が生きたいというのはどういうことかと、人間づくりのなかで考え、本当の弱者を救ってあげるのでなければ意味がありません。 曾野 そうです。 ぜいたくな一生かは愛のあるなしで決まる 清原 私は俗にいう恋愛とかエロスということではなく、人間としての「愛」が人生のすべてというか、目的であると思っています。キリスト教ではそれをアガペーと言いますね。 曾野 本当に最後に残すべき大切なものは愛だけなんです。たとえ貧しくても、その人の人生がぜいたくだったかどうかは、愛のあるなしで決まります。 実は愛という言葉にあるときショックを受けたことがあるんです。ブラジルの貧民窟にいる母親が知的障害の子供を産みました。父親がだれかもわからない。その子のことを神父様が「かわいいですか」と母親に尋ねたら、何と答えたと思います? 「この子は愛のように美しいです」って言ったんですよ。 清原 素晴らしい答えですね。 曾野 そうです。でも、私は根性が悪いものですから、「なぜこういうことが言えるのか」と考えました。そして、だれかが彼女の耳にタコができるほどその言葉を吹き込んだからだ、と思ったとき、「では、だれが?」となりますでしょう。消去法でいくと、吹き込んだのは貧民窟の人たちしかいません。これはまた、ショックでしたね。 清原 そういえば、先生の本の中でスペイン戦争で夫を殺された未亡人が、十人近くいる子供たちに「あなたたちの人生の仕事はお父様の敵を許すことです。それを人生の目的としなさい」と語ったことが書かれています。あのエピソードからは、人間の最高の魂を感じました。人生の目的を「許すことだ」と断定できるのは本当にすごい。 私がその話で思い出したのは、孔子の「恕」という考えでした。弟子が「人生で一番大事なことを一言で言えば」と孔子に尋ねたとき、たちどころに「それは恕である」と答えられています。恕とは「相手を思いやって許す」ということなんですね。人間最後のところは、恨みを持たず許すことしか救いはありませんから、許せるようになるまで自分を磨けということでしょう。 曾野 私などは許す前の段階では、存分に恨みますよ。存分に恨むこともまた必要なのではないでしょうか。 漬原 先生は物事を“球体”としてとらえられて、表からも裏からも、上からも下からもご覧になれる“複眼”をお持ちですが、私も老醜のなかの一つの救いとして、複眼で見られるようになってきたかな、ということがあるんです。これは若いときにはできませんでした。 曾野 それは、普通の人にはなかなかできないことです。ですから、少なくとも私たち二人はこの年まで生きてきて、ようやく複眼になってきたのではないでしょうか。 なぜ善人に不幸がくるか彼らは耐えられるからである 清原 私はセネカの言葉が好きなんですが、こういう一節があります。 「なぜ善人に不幸がくるのか。彼らはそれに耐えられるからである」 この場合、「神が試練として、その苦労をお与えになるのだ」とするよりも、はるかに自己肯定と励ましの説得力がありますよね。 曾野 そうですね。 清原 私の人生の山坂を振り返れば、若いころは苦しいことが多く、とくに『主婦と生活』の編集長に就任直後は、「ああ、責任が果たせない。朝になったら死んでいたらいいなあ」と思ったことも再三でした。 編集長は昭和四十年から八年余やらせてもらいましたが、当時は一年近くもストライキが続いたあとで、編集部内の人間関係もぎすぎすしているし、他社と競合する婦人雑誌四誌のうち部数は最低でした。私は結婚したことがございませんので、身内には「出家したと思ってほしい」と言って、時には家にも帰らず仕事に取り組みました。 そのときの気持ちは、道元の言葉を借りれば、「百尺の竿頭すべからく歩を進むべし」ということでした。百尺(約三十メート)の竿を登って、ついに竿の先まで行き着いた。だが、もう進めない。下は千仞の谷底、落ちれば死です。なのに、道元は「もう一歩進め」と言う。そして、次に「十方世界、是全身」という言葉が続きます。 要するに、身をぎりぎりの極限状態に置いて努力せよ、自分の命を捨て切ったら、逆に自分自身は大宇宙と合体して、生も死も恐れも超越してしまうということですね。私はその道元の言葉を杖にして、がむしゃらに働いたつもりです。その結果、まあ、おかげさまで一年で部数がトップになりました。 曾野 そうでしたか。 清原 その後も先程申しましたように、昭和五十八年に乳がんの手術で、女として掛け替えのない乳房を失いました。それまでラジオで人生相談などもやっていて、一万数千人もの方に回答したと思いますが、女の悲しみを人事でなく初めて実感しました。おかげさまでこの年になってわかったことは、人生半分は努力、精進。あとの半分はなかなかどうして誠に理不尽なもの、と悟りましてございます。 曾野 その点、私などは小説を書くのが本当に好きだったし、いまも大好きです。いまの職場でも「私が第一に大切なのは小説」と言っています。「小説が一番大事」というのは一度も変えたことはありません。優先順位は小説が一番、財団が二番です。 そう言いますと、お前にとって日本財団の仕事は何なのだということになりますが、私には“契約の思想”というのがあるんです。ですから、契約した以上は私なりに一所懸命にやっています。大体、自分では日本財団のPR部員のつもりなんですよ(笑)。 生老病死を語れるいい時代になった 清原 私は最近、「生」について感じることがございましてね。というのはNHKが毎週放映している『生きもの地球紀行』に非常な感銘を覚えるからです。あの番組は世界中のさまざまな野生動物、禽や魚たちの生態を、優秀なカメラ枝術によって神秘的なビジュアル効果で紹介しています。私たち人間の、実は原点にあるものを、毎回深く見ることができるんですね。 人間の知恵や欲望によってまったく左右されない、ただただ大きく美しい大自然の営みだけが感じられる。“人間の生”もこうありたい……と私は願っています。 曾野 「生」だけでなく、「老」と「病」と「死」についてお話しいたしますと、私がどうして『戒老録』を書けたかとなると、三十何歳で自分の親と夫の親三人を看たからなのです。“ミニ託老所”をやっていたわけですね(笑)。また、聖心女子大学では幼稚園のころから死と馴れ親しむ生活をしていました。ですから、『戒老録』も書けたのだと思います。 死とは、だれにも必ず訪れる共通で平等な運命です。しかし、死をタブー視するあまり、この問題は長い間、正面きって取り上げられることはありませんでした。ところが、この二十年ぐらい前からカトリック系の大学で取り上げられるようになってきました。キリスト教は自由なる精神でタブーにアプローチしてきたのです。 そのように、タブーにとらわれず「生老病死」を自由に語れるようになり、本当にいい時代になりましたねえ。
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