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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: リモーネの村  
コラム名: 私日記 第10回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2000/10  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  七月二十日
 昨夜から東京の自宅に関西からやって来ていた太郎(息子)を午前十時送り出す。昨日に引き続いて再度神田の本屋へ行って午後の飛行機で帰ると言う。
 月刊誌『すばる』に連載中だった『狂王ヘロデ』の最終回を書き始める。二十一回の連載は約二年近く、枚数も六百枚を超えた。今回もまた生きて作品を完成できた。ただごとではない幸福と思う。
 
七月二十一日
 昼食に友人と素麺の軽食。素麺もガラスの器もうんと冷やす。三戸浜で採れた西瓜、白い部分が多いが、意外と甘い。夕方六時からJOMAS(海外邦人宣教者活動援助後援会)の運営委員会。JOMAS宛に頂いたお中元のグルメ便があったので、今日に合わせて鰻を注文しておいた。それと庭のトマト、焼きナスの冷やしたもの、お味噌汁と漬け物だけ。でも皆おいしいと言って食べて下さる。
 会議で問題になったのは、フィリピンやアフリカ諸国で、一体何のためにお金がいるのかしばしば明確でなくなることだ。例えば学校の職員の給料に四百万円、子供たちの昼食代に百五十万円送ったとすると、それが給料に四百五十万円、食費に百万円になっていたりする。つまり、あっちもこっちも足りないのだ。だから急に先生をふやしたり(減らすこともある)食費を切り詰めたりする。医療関係の施設では、今年どれくらいの人数の患者が、急患でやって来るか推測がつかない。救急と言っても牛車に布団や薪や炊事道具を積んで来る救急患者なのだが、その多くはほとんど医療費を払えない人たちである。こういう場合は、シスターに年間百万円なり二百万円なりの「預け金」をしておいて、その中から使ってもらう方法を取る他はない。
 
七月二十二日
 朝から雑用。山のように積まれた寄贈本のことを考えると胸が痛む。どんなにしても読めない量である。午後から夕方にかけて最後に残ったエッセイの連載を書く。夕食後にやっと明日からの旅のための荷造り。ヨーロッパの気温は摂氏十七、八度だと聞いて、厚めのスーツを引っ張りだした。来月は南米に行くのだが、その前に、小説の連載がなくなったので本当に楽になった。小さな目先の幸せというものだ。
 
七月二十三日
 朝九時に家を出て成田に向かう。朱門が車で送ってくれる、と言う。日本財団の秘書課から車をどうぞと言われたのだが、今度の旅は私用だけだから、財団の車は使わない。
 喋りながらJOMASに寄付して下さった方への受け取りのサインを二百枚以上書いた。飛行機の中では、大阪新聞の連載一回分と『週刊ポスト』連載一回分。あまり眠らないようにして、予定より四十分早くフランクフルト着。友人のK夫妻と息子のヨウちゃんに迎えられる。日曜日なのに空港まで来て頂いて申しわけない。熱帯植物園の前の小さな落ちついたホテルに入って、早く寝ることにする。
 
七月二十四日
 今度の旅行の最大の忘れものは睡眠薬。でも人間は必要なだけ眠るもの、と思えるから、今私は健康なのだ。不眠症の時代なら、薬を忘れて来た、と思うだけで顔がひきつった、と思う。しかしそういう時には、決して薬を忘れないものだ。
 午前中、朝っぱらからご繁昌の「赤線区域」を歩く。「ピープ・ショウ」という懐かしい言葉が看板に書いてある。かなりの年の太った小母さんが入り口に立っているので「客引きかしら」と小声で聞くと、「彼女自身がそうでしょう」と言われた。ドイツには売春禁止法がないので、ハンブルクの名物「飾り窓の女たち」も残っているわけだ。
 午後、郊外のザールブルグのローマの城跡に連れて行って頂く。紀元八三年にできた約百人の兵のための兵站基地で、履物、土器、農耕具などすばらしいものが遺跡に残されていた。つまりイエス時代のローマの版図の北端がここらへん、東端がイスラエルの死海付近ということが実感される。『狂王ヘロデ』を書きながら、少しはローマを学んだが、マントの着方、その留め金のデザインなど、こんなにはっきりとは見えていなかったので、思わぬ贈りもの。
 ザールブルグは木漏れ日と徴風の爽やかな土地。天気予報は雨だったのに晴れた! 道端でたった一人、小母さんが自分の家の庭で採れたというサクランボを売っていた。後で食べてみたら、雨に当たって割れ目のできたものは、やはり甘くない。果汁が洩れるのだろう。
 帰りにフリードリッヒ大帝の后であったヴィクトリアによって一八○○年代末に建てられたクローンベルグの城に寄る。今はホテルになっている。ロビーに入ると、古いホテルでよく匂う独特の臭気。建物でも古くなると老人性体臭が出るのか。
 夜はK一家とビールとソーセージの口福。
 
七月二十五日
 ベルリンヘ移動。知人は東ドイツ地区にあるホテルを取っておいてくれた。
 ベルリンの壁が落ちた時、私はどんなに感動したか。恥ずかしいけれど私は涙を流した。私はドイツ人ではない。「ベルリンっ子」でもない。だからこの事態をそんなに感動する理由はない、と思った。
 しかし、私は生きて自由主義が一応の勝利を見、社会主義が破綻したという答えを得られる日があるとは思わなかったのだ。もちろん自由主義も資本主義も欠陥だらけだ。欠陥のない制度はこの世にあり得ない。しかし日本人のどれだけ多くの知識人とマスコミは、社会主義を礼讃しただけでなく、それを信じなかった私たちを圧迫したことか。
 キリスト教徒としては、私は現世の報い、つまり答えの出ること、を望まないことになっている。しかしベルリンの壁が落ちた時、社会主義がまちがいであったことがはっきり示された。そんなことはめったにないから、私は涙を流したのだ。それが少し恥ずかしい。
 私にはまだ壁があった頃のベルリン分断の記憶がある。最初に入った時は、自動車の床下に大きな鏡をさしこまれて、密入者の有無をチェックされた。
 今、東ベルリン地区は、建設用のクレーンが林立している。二、三年後に来たら、光景がすっかり変わっているだろう。
 
七月二十六日〜二十七日
 昨夜、CNNのニュースで、パリ空港のコンコルド墜落事故が報道された。今日は一日そのニュース。私はコンコルドに乗ったことがない。そんなに急ぐ旅をしたこともないし、閉所恐怖があるので狭い飛行機のキャビンには乗りたくなかった。町中のドイツ国旗はコンコルドで死亡した百人に近いドイツ人の死を悼んですべて半旗になっている。こういう国家的、人間的感情の表現が国旗で可能なのだ。日本人はどうして国旗を目の敵にするのだろう。
 第二次大戦中の歴史的な場所を歩いて見るツアーというのがあったので、それに加わろうとしたが、ガイドがふざけているのと、町中では周囲の騒音で声がよく聞き取れないので、数分で離脱。
 ベルリンの壁はもうほとんど痕跡も残っていない。しかし単なる旅行者としてでもあの圧迫感を記憶している私は、壁はどの辺だったのか、といつも反射的に気にしている。
 壁の痕跡が、静かな道路の敷石の僅かなデザインの違いにしか残っていない町並みの英語の本屋で、数冊のヒトラーに関する本を買えた。ヒトラーは睡眠薬中毒だったとも、パーキンソン病だったとも言う。どちらもほんとうかもしれないが……個人に関する真実はほんとうは永遠にわからないものだ。
 それと英文学史で習っただけで、一度も原文を見たこともなかった“Beowulf”(八世紀初めの叙事詩)の現代訳も買えた。すぐ読む心理的余裕もないのだが。
 二十七日にはポツダムヘ。
 一九四五年二月のヤルタ会談の時、ルーズベルトはもう衰えていてほとんど口をきかなかったという。彼は四月に死んだ。ポツダム会談は七月。主役はトルーマンになっていたわけだ。
 
七月二十八日
 ベルリンから、ミラノヘの飛行機は、機体整備ができなくて出発が一時間半遅れた。コンコルドの事故の後で、どこも慎重になっているのだろう。結局ケルンヘ出てから、ミラノヘの便に乗り継ぐことになった。
 ケルンでは、空港の端でおろされ、全く同じ型に見える飛行機に歩いて乗り換えた。パイロットも同じように歩いている。なぜ同じ飛行機ではいけないのか、とスチュワーデスに聞いたら、最初の飛行機には、アルプスを越える能力がない、という。ほんとうにそんなことがあるのだろうか。
 迎えの車は、結局ミラノの空港で四時間待っていた。トレントまで高速道路で三百五十キロを走り出す。
 ほんとうはガルダ湖畔のホテルに入って着替えをしてからトレントに入るつもりだったのだが、その時間がないので、公会議で有名なトレントの大聖堂へ旅行着のまま駆けつけることになった。そこで三枝成彰さんがつくられた『レクイエム』がリバ・デル・ガルダで毎年行われる夏の音楽祭の演目の一つとして海外で初めて公演されるのである。私がその歌詞をまとめているイタリアでの上演に当たっても、イタリア語の訳は配られたが、歌詞はすべて日本語のまま歌われた。
 音楽祭は、普通はリバ・デル・ガルダの市内で行われるのだが、この『レクイエム』に限って、特別に由緒ある大聖堂の祭壇の前で演奏されることが許可された。市長さんをはじめ、市の主だった人々がすべて出席していた由。ソプラノはミケーラ・スブルラティ、テノールは上原正敏、指揮はマルコ・ポエミの諸氏。世界的なバリトンのブルゾン氏もわざわざ聴きに来てくださっていたという。
 演奏が終わった後、立ち上がって熱狂的な拍手が送られたのも、トレントでもリバ・デル・ガルダでも珍しいとのこと。終わった後で、プログラムにスポンサーとして「ザ・ジャパン・ファウンデーション」とあったのを誰かが日本財団と勘違いしていた。日本財団の英語名は「ザ・ニッポン・ファウンデーション」である。私は私個人に関係したことに、日本財団がスポンサーになることは多分許さない。
 
七月二十九日〜七月三十一日
 ベローナやトレント、そしてリバ・デル・ガルダの町をゆっくり見る。
 最後の一日はガルダ湖を船で南下して、西岸のサロまでくだった。途中の斜面のあちこちに、コンクリートの柱が立っているが、これは昔レモンの木を寒さから防ぐために、覆いをした名残だそうだ。リモーネというそのものずばりの名前のついた村まである。近年は気候が温かくなったので、こうした霜除け?装置は要らなくなった。
 サロで昼食を食べてから少し歩いていると、ムッソリーニが最後の頃を過ごしたというヴィラ・シモニーニの前に出た。今はホテル・ラウリンになっている。前庭にオペラ『トウランドット』の舞台面に出て来るような、橋型のアプローチがある。彼がここにいた頃は外務省の指令所であった。ムッソリーニはコモ湖畔で捕らえられて銃殺され、裸体で晒されたのである。人間は皆残酷だ。
 
八月一日〜二日
 午後の便でフランクフルトに出た。空港でソーセージを一包買って、夜十時、シンガポール往きの便に乗る。二日、午後四時半、シンガポール着。陳勢子さん、迎えに来てくれる。懐かしい南の匂い。こういう時、私の遺伝子の中に確実に南方人の血があると思う。
 
八月三日〜十三日
 休み、また休み。とは言うが、作家の時間はどこまでが仕事か、どこまでが全く無為な時間か、区別がつかない。夏には、必ず休みを取ること。仕事から或る一定期間だけ(とは言ってもいつも十日から二週間くらいのものだが)、遠ざかること、が朱門のかなり強固な希望である。だから春のうちから早々と夏のretreat時期を決める。すべての予定よりそれを優先させないと「リコンされますので」と人には言っている。半分嘘だが、半分迫真性を帯びてはいる。
 retreatという言葉は、母校の聖心にいる時に覚えた。カトリックの黙想期間のことである。つまり三日とか九日とか長い人では一月とか、ほとんど沈黙を守ったまま、皆と一緒に祈り、瞑想し、読書をし、手仕事をしながら朗読される本を聴く。今どきの人は「ばかばかしい」というだろうが、私はそういう沈黙と静寂の賛沢を知ってほんとうによかった。今の子供たちには、誰も教えてやる者がいない。気の毒な「騒音時代の申し子」たちだ。
 ほんとうのretreatの意味は、退却、後退、隠れ家、潜伏場所、老人や精神障害者などの収容先、とか辞書には書いてあるが、私は隠遁所という訳が好きだ。
 もちろん私のretreatは、沈黙どころか、しゃべり放題だが、掃除も炊事も執筆もすべてこなしながら、ただ、誰とも会わず、何の約束もしない。どこからの電話も受けない。時々スコールの音を聞く。潮州の料理を食べに行く。安物を売っている雑貨屋へ行く。そんな生活だ。
 
 ホランド・ヴィレージという、シンガポール在住のヨーロッパ人がよく行くショッピング・センターの三階の奥の、一番薄暗い美容室に髪を染めに行く。何回か行っているのだが、名前もまだ覚えない。ただ一番店が汚かったから、そこに行くことに決めたのだ。
 そこにやはり若くはない中国系のおばさんがいる。「どんな色に染めるの?」と聞くから、「真黒でもないの。赤いのもだめよ。黒に砂色というか、挨の色をかけたようなのがいいの。それが私の生まれた時の髪の色だから」と言った時、彼女は腕組みしてその奇妙な色に挑戦してみよう、という顔をした。その時から、私はこの店に通うことにしたのだ。
 彼女は必ず聞く。「コーヒーはどう? そう、じゃ中国茶を入れて上げる」
 
 誰にも会わないと言ったが、いつも待っている鳥はいる。朝五時、夫がガラス戸を開け、電気は消したまま、天井の大きな扇風機をゆっくりと廻す。五枚の羽を目で追うことができるほどのろく廻る扇風機は、人生を焦らずに掻き回しているという感じだ。そして空は僅かに夜明けの兆しを見せるが、時差が取れない私は、どうしても眼が開かない。
 その時グアーともギャウともつかない低い大声が、瞬時に私の眼を覚ました。目の前の大木の枝が揺れている。大サイチョウの「ジャック」がやって来たのだ。体は黒、頭の上に厚揚げみたいなクッションと、喉の下に黄色い袋をぶら下げた一メートルに近い鳥だ。私たち夫婦は彼を「ジャック」と呼んでいる。その日「ジャック」はテラスの手すりに止まった。そして私たちの見ている前でウンコをした。後で恐る恐る冷房機の外側に落ちている大サイチョウのウンコを見に行った。大きな梅干しほどの量で、それが高級料亭の大盛りの刺身皿につけられた山葵の山の形になっていた。その日一日、私は大サイチョウのウンコを見たというだけで興奮していた。こういう体験は、私の知人には多分ないだろう、という優越感で……。
 
 ホランド・ヴィレージのショッピング・センターの三階の一番汚い美容院のことは書いたが、そこでは当然の話だが、私が日本では読んだことのない雑誌をたくさん見せてくれる。オーストラリアで出版された室内装飾の雑誌、健康雑誌。映画やテレビの雑誌がないのは、今はそういう出版物が世界的にはやらない時代なのか、それとも店主の趣味で置かないのか。
 その中の雑誌の一つに、ニュースとして、映画『007』シリーズですっかり私もファンになったショーン・コネリーが、先ごろ「騎士」の称号を受けた話が出ていた。
 この人は若い時は細身ですばらしい二枚目であった。しかしまことに自然に別人のように年を取った。若いからショーン・コネリーなのではない。ショーン・コネリーは何歳になってもショーン・コネリーなのだ。それが人間の生き方だ。しかしその変化を敢然と生きて見せるのは一つの勇気の証である。
 老年に入りかけたショーン・コネリーは、日本人にはチェックのスカートにしか見えないスコットランドのキルトの正装で、エリザベス女王の前に姿勢を伸ばして、低い足台の上に右膝だけを載せて脆いていた。同じ姿勢でも、この人がやると、いい意味でちゃんと芝居の場面になっている。儀式として女王のサーベルが彼の右肩に置かれている。
 私はふと、彼が立ち上がる時に不自由ではないのかな、と思った。私自身も歩き過ぎて膝を痛めた時、立ち上がるのが辛くなった。整形外科でも「確実に治す方法はない」と、匙を投げられたのである。それが今では漢方と薬で、痛むことも腫れることもない。しかし私の廻りでは、膝の痛い人が多い。
 よく見ると、この彼が脆いている儀式用の足台には、右手で起立する時に支えができるように小さなハンドルがついていた。
 おろかなことだ。この足台の構造と、大サイチョウのウンコを見たことでけっこう満足している。もう少しましなことに感動すればいいのだが、と我ながら思う。しかしおかげで、まだ退屈をしたことがない。
 八月の末から、ブラジル、ボリビア、ペルーに行くので、日本ではもうほとんど時間がないと思って、ずいぶん買い物をした。
 まず同行者たち十五人とボリビアで計画しているラーメン・パーティーのための特別なカップ・ヌードル。これは旅の途中で、ホテルの食堂ではなく、我々だけでラーメンを食べる日の食料である。その時団員は雑談ができて情報交換が可能になるし、親しさも増す。ここの、チャイナ・タウンのデパートで、マレーシア製のカップ・ヌードルを売っていた。小型だが、海鮮とトムヤム風辛口のと、二種類を味見してみたらなかなかのもの。しかも値段は日本の半額なので、三十個を買って、びっしりと一つのダンボールに入れてもらう。
 日本製のクオーツの掛け時計。これも立派で安い。ペルーの日系老人ホームの建設費に、私の働いているJOMASは一千万円を出した。竣工はまだ先だが、お祝いにこの時計をかけてもらうことにする。あちこちの施設の子供たちへのお土産には風船百個入りの大袋。刺繍糸など。しかしほんとうのお土産は、レントゲンのフィルムや薬類、百万円見当の要請が来ている。
 僅か二週間ちょっとの旅でも、この複雑さである。南極越冬隊とか、エベレスト登頂隊の装備を思うと、私は溜め息が出る。
 
八月十四日
 帰国。机の上が郵便物で埋まっている。
 つまりこれだけ義理を欠いているのだ。
 
八月十九日
 三戸浜の花火。初めてこの花火を共に見た幼友達はもうこの世にいない。あの天上で何をしているのだろう。
 



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