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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 永遠のおののき?目に見えぬ壁ができていた  
コラム名: 自分の顔相手の顔 303  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2000/01/18  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   「老人は旧聞を読み、旧聞を語る」と皮肉を言った人がいたが、私も老人だから、旧聞を語ることはできるだけ節するにしても、旧聞は読んでもいいような気がしている。
 私は新聞の切り抜きをするのが好きなのだが、それが旧聞になってどんどん溜まる。それを読み返すとけっこうおもしろいのだ。
 今年はまだ二十世紀で、この百年の間に何に感動したか、というと、個人的なこと以外では、私は今でもベルリンの壁の崩壊がその一つだったような気がする。
 一九八九年の十一月九日にベルリンの壁は崩壊し、人々は夢にまで見た解放を味わった。ロイター通信の新聞ならぬ旧聞は、その当日のことを次のように書いている。
 「十年前、最初にベルリンの壁を押し破った人たちは、十年目の今日、自由や、ドイツの統一や、西側に逃げたことを思い出しはしなかった、と語った。彼らが求めたすべては、ただビールだけだった」
 十年前の夜、深夜十二時より二十分前に最初の突破口となった壁の近くのボーンホルマー橋の上では、数百人が祝賀の集まりをした。東独の守備隊が門を開けたのは奇跡だった、と記事は書いている。
 今は失業している四十七歳のユェルゲン・プロコップは言う。
 「私もその時、国境を越えるために来ました。数百人が、門を開けながら歌っていました。私は西側へ逃げようとは望みもしなかった。ちょっと向こう側へ行って、ビールを飲んで周囲を見回して、そして妻の待つ家に帰ろうと思っていました」
 彼の話によると、守備兵も群衆が増えるに従って穏やかになった。彼は押しだされるように橋を渡って西側に入っている。そこでは西側の人たちがシャンパンと花とビールを持って待っていた。
 三十八歳のマティアス・クリップはその夜、幼い息子を家に寝かせておいて、妻のエッダとちょっと西側に行ってみた。
 「数ブロック歩いて、ピザでビールを飲んで帰ってきたんです」
 クリップは都市計画のプランナーで、その夜、全く抑制のない幸福感を抱いたことを語ったが、同時にその思いが長続きしなかったことにもふれた。百五十五キロに及ぶ壁は取り払われたが、代わって、今では羨望、憤り、不信などの眼に見えない壁ができていた。
 セールスをやっている四十四歳のクリスティーネ・シュナイダーが言う。
 「壁のあった間は、私は西ベルリンに友達がいたの。しかし今は一人もいない。別れていた間に私たちはあまりかけ離れ過ぎて、お互いがわからなくなってしまったのよ」
 私は解放の翌年の夏ベルリンに行き、壁の破片を幾つか拾って来て、私の祭壇に飾った。誰のでもない、それは私たち皆の愚かさの象徴のようにも思えたからだ。そして十年経ってもそれは永遠に人間の愚かさを見せつけてくれる。
 



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