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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 土木技術者の繊細な心の動きに感動  
コラム名: Interview 第2回  
出版物名: 建設グラフ  
出版社名: 自治タイムス社  
発行日: 1998/06  
※この記事は、著者と自治タイムス社の許諾を得て転載したものです。
自治タイムス社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど自治タイムス社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
     民主主義の基礎は電気にあり

       電気、経済の基礎は土木にあり



ダム現場には、様々な人間のドラマがある。技術者たちの自然な振る舞い、行動も、人間の機微を鋭く見抜く作家の目には、一つ一つが大きな意味を持って像を結ぶ。小説「湖水誕生」、「無名碑」は、そうした観察眼を通して誕生した。ダム建設現場に入ってこれらの作品を生んだ曽野綾子氏は、さらに「民主主義という優れた統治形態を可能ならしめたのは電気であり、その生産供給を可能にし、あらゆる産業の根幹となって今日の繁栄をもたらしたものは、土木である」と、喝破する。




??作業員らとともに過ごしてきた現場には、多くの深い思い出があることでしょう


曽野 いくつもあります。「湖水誕生」を執筆するために、新高瀬川ダムの現場にいた時のことです。そこは長野県の松本から信濃大町を西に入ったところにあり、標高は大体1,200円という高いところです。現場ではメートルのことを「円」と表現するのを教えられました。ロックフィルタイプダムで、膨大な量の土が積み上げられています。
 私は広々とした野球場のようなテンパの上にいたのですが、夕方にもなると寒くて空腹も覚えます。「早く宿に戻って食事をしたいな」と思っていると、畳1帖分の大きさもあるかないかというほどの小さなブルドーザーが、上がりハッパで帰ってきました。
 所定の旗の地点に着くと、作業を終えたオペレーターの男性は、誰もいない広大なテンパの中で、誰に見られているというわけでもないのにキャタピラーの土を丁寧に落としているのです。1時間半後にはまた作業が始まるというのにです。
 これを見て私は、頭が下がりました。普通なら「どうせ、また作業が始まるのだから」と思ってしまうところです。これこそが日本の技術と誠実の力なのだと痛感しました。その人のこと、その時の場面を、私は今でも忘れません。
 また、ダムの地下発電施設から突き出ている鉄筋を、まるでサルのように登る人がいました。「足でも滑らせたらどうするのか」と、ハラハラしながら見ていたものです。
 200メートルもある縦坑の底近くで、作業員が吸うタバコの火が見えたのも印象的でした。200メートルも下にいて、埃りもひどくて視界が悪いはずなのにタバコの火が見えるのです。
 水の出る切り羽で、タバコを彼らがどのようにして吸うのかも知りました。全身が濡れていますから、まず脇の下で手を拭いてね、それから保安帽の僅かなひさしの下で火をつけるんです。
 1976年6月に、アメリカアイダホ州にあるティートンダムが決壊する事故がありました。このダムは、新高瀬川ダムの下流にある七倉ダムと、高堤、堤長とも同じ規模です。それがアッという間に決壊したのです。ダムの一部が黒ずみ、慌ててブルドーザーを駆り出し、土で補修しようとしたのですが、そのシミがどんどん広がっていき、やむなくブルドーザーを放棄して逃げ出すという光景を、オリンパスのカメラが捉えた連続写真が、アメリカの雑誌に出たんですよ。
 その時、私は「下のダム」と言われている七倉ダムの現場に泊まっていたんですけど、東京電力第3建設所の所長さんはじめ工事関係者が、なぜ決壊したのか原因を知ろうと、膨大な資料をみな一斉に読んでいました。私も資料を借りて、就寝前に少し読んでみたりしましたが、カーテングラウトの長さも数も不足していたということを知りました。
 それにしても、あれだけ多くの人間が一斉に真剣に勉強するというのは、凄いことで圧倒されました。


??作業員の慣習の中で、疑問を感じたことなどはありませんか


曽野 彼らに、初めアクイを感じたことがありました。カタカナのアクイです。作業員同士が『あれは秋田の組だ』とか『あれは新潟の組だ』とか言っていた時です。なぜ、そんなに器量の狭いことを言っているのかと思いました。
 ところが、後になってその理由がよく分かりました。例えば全断面を何本もの削岩機で掘削してるような時、作業は一斉には終わらず、どれか一本くらいは削岩機が残ってしまいます。終わったところでは順次、ダイナマイトを詰め始め、親方がその指揮に当たるのですが、削岩機は一台だけでも凄い音ですから人の声が聞こえづらいんです。その上に方言となると、同じ地域の出身者にしか分からないのです。同じ地域の出身者の組は、県単位どころか、村単位にまで分かれているでしょうから、コミュニケーションのためには、出身地の言葉を理解することが必要なんだということが分かりました。部外者がくだらない屍理屈を言ってはみても、それなりの理由があるのだということが分かりました。


??ドラマを構築していく作家の目から見て、特に感動した場面は


曽野 200mの長尺のレールが倒れたのを、目の当たりにしたことがあります。トンネルでレールが200メートルも寝てしまうなんてまさかと思いましたが、本当にあるのですね。
 そのレールを起こさなければならないわけですが、私は測量用のレベルだったか、トランシットだったかを覗かせてもらいました。その時、100メートルから150メートルも離れたところで、作業員の困惑している表情がよく見えました。それはまた闘いの表情ともいえるもので、私は小説家としてフと脱帽したいという思いに駆られましたね。
 相手は芝居をしているわけでもなく、見られていることを意識しているわけでもないのですから、とにかく良い場面を見たという気がしました。
 また、救出できなかった桜が湖底に沈んだことがありました。高瀬にダムの湖が出来始めた五月頃のことです。現場の方が「曽野さん、見に行きましょう」と誘うので行ってみると、もうすでに水面より1メートルくらい下に沈んでいました。湖底に沈んだ、それが最後の桜でした。
「咲きながら沈んだのだろうか、沈んでから咲いたのか。どっちなのだろう」。そう言って、ダム屋さんたちがみんな心を痛めていたのです。湖底に沈んだ桜も美しかったのですが、それを悼む技術者たちの心の美しさに感動しました。
 ある時、所長さんが私を、取水口に連れて行ってくれたことがありました。遂道の補強のために、取水口に十字架の形の構造物が自然に出来ていたのです。所長さんは「まるで教会のようでしょう」と…。
 こうした良い体験、良い場面が数限りなくあります。


??一つ一つがドラマですね


曽野 どれをとっても、論理では計測できないことばかりなのです。特に私は、寒い現場には冬の寒い時節に、暑い現場は暑い時節に行くのを原則にしていましたから。


??現場にはそうした人知れぬ苦労や美談も多いのに、土木は3Kなどと言われてきました。そうしたイメージを回復するには、何が必要と考えますか


曽野 一般の人がなかなか入れない現場だから、PRが出来ないのかもしれませんが、私がいつも言っているのは、大きなプロジェクトには、必ず調査が始まる段階からヒストリアン(歴史的な記録者)を付けるということです。
 アメリカでは、沖縄侵攻の第一日からヒストリアンを付けました。沖縄本島上陸の時から、米軍はヒストリアンを同行させているのです。その一人があの有名な記者であるアーニーパイルです。かって「アーニ一パイル劇場」という劇場が日比谷にありました。
 それくらいのものが、土木にあってもしかるべきですね。何年がかりという長い期間、私のような者を付け、現場を見せるということを新高瀬川ダムはして下さったわけです。もっとも私は眼の病気をしたりしたので、17年目にやっと『湖水誕生』という作品が完成したわけです。


??ある現場で、イメージアップのために現場見学会を開催したところ、それに参加した若い母親の一人が作業員を指さし、子供に向かって『一生懸命勉強しないと、あなたもこうなるのよ』と話していたそうです。これを聞いて、作業員はじめ関係者らの心は傷つき、がっかりして「もう見学会はやめようかと話し合った」というエピソードを聞いたことがあります。無知から来るのでしょうか。一般者の土木というものへの偏見は、根強いものがあるようです


曽野 私も友人を建設現場に誘ったりもしました。現場側は、“曽野綾子が友達を連れてきた”ということで、入れては下さいますが、友人からはよく『怖くない?』と聞かれました。それを聞いて、私は随分、腹を立てました。私は『怖くない?』などと言う女は、大嫌いなんです。男は怖いからといって、やめるのか。男たちは、たとえ怖くてもどんなことでもしているでしょう。だから、その一言で私は連れて行くのをやめました。
 もっとも、私自身は高所恐怖症とは無縁で、ダムの背面なども、抵抗なく登れたということもありますが。
 よく「飯場」を「合宿」と、わざわざ呼び変えたりしていますが、当人たちは飯場と呼んでいます。また、自らを「僕たち土方は…」などとおっしゃる方もありましたけど、「方」は悪い言い方じゃないんですよね。
「飯場」とか「土方」という言葉は、とかく差別用語と受け取られますが、外部の人間がそんなにややこしく考える必要はないのです。肝心なことは尊敬の念を持って接することです。その気持ちさえ忘れなければ、例えば私も「もう飯場にお帰りになるのですか」と言ったってどうということはない。でもだんだんそういう言葉も古くて不自然になりましたね。


??公共投資としての公共事業が“税金のムダ使い”といった峻烈な批判にさらされ、いきおい土木・建築というものへの揶揄や社会批判も随分、聞かれます


曽野 今、私たちが使わせてもらっている電気にしろ、道路や新幹線のような軌道の交通機関、さらに航空機に関連するあらゆる付属施設は、何もかもいわゆる「土木屋」が造ったんですよ。
 私は1960年に、アメリカで運転免許を取りました。アメリカの警官は女性とみると優しくて、答えだけそれとなく教えてくれるんですね(苦笑)。その時、必要があって、バンクーバーからコスタリカまで車を走らせました。アメリカではすでにフリーウエイやハイウエイが開通していましたが、主人(作家の三浦朱門氏)とは『生きているうちに、日本にこんな高速道路を見ることはないだろうね』などと話したものです。
 それがわずか4年後、つまり東京オリンピックの年には、2km余りですが、日本で初めての高速道路が、鈴が森?京橋間に完成したのです。
 その頃、建設大臣を務めておられた河野一郎さんにお会いしたら、『あんなにカネをかけて、あんなに立派な道路を造ってしまったが、どうしたもんだろう』と胸中を話されていたのが好印象として残っています。わりと率直に物を仰る方でした。
 そして、昭和30年に、私は初めて車を購入し、大阪まで行ったことがありますが、意気揚々と東京に戻って友人に話したところ、『大阪まで道があるの?』と言われたのを、今でも覚えています。それから30年、日本は随分変わりました。
 私は、高速道路建設の苦労話を『無名碑』の中に書きましたが、当時の土木屋さんはクロソイド曲線って何のことかわからなかった。聞くのもいまいましいから丸善で本を買って勉強したりなさったそうです。東名高速に先行していた阪神高速道路の現場は田んぼのような所で、一部は新幹線の工事が並行して行われていました。その工区に組んであったステージングと呼ばれる足場などは、一体どうやって造ったのか。これも聞くのは恥ずかしいから、夜にこっそりと見に行ったんだそうです(笑)。
 今日の日本の経済の根幹を造ったのは土木です。それが分からない人は仕方がないでしょう。しかし私は、土木については「本当に立派な仕事をなさって、おめでとうございます」と言いたいですね。
 大事なことがあります。電気のない所に民主主義は存在しないのです。なぜならば、民意を瞬時に集めることが物理的にできませんから。電気のない所では、即座に族長支配が始まるのです。戦後日本の民主主義を善しとするなら、それは電気のお陰なのです。
 もしも今、このビルの電気が止まったならば、次に何が起こるでしょうか。問違いなく族長支配が始まります。その場合、私は族長にはなれません。このビルの構造に詳しい人が登場して『各階に止まるように!』などと指示を出し、そこから族長支配が始まります。異変が起きたとたんに民主主義は駄目になってしまうのです。
 それに対し、民衆の力を今日、ここまで活用できたのは電気があるからです。資源がない中で、日本人の小器用さを活かし、コンピュータをはじめ様々な製品の軽量化、軽薄短小化に向けての産業が成り立ったのは、この電気があるからです。そして、その電気を産みだすダムを造ったのは土木の技術であり、日本の今日の繁栄を築いたのは、まさしく「土木屋さん」のお陰なのです。





曽野綾子(その・あやこ)
本名:三浦知壽子  洗礼名:マリア・エリザベト
小説家、日本芸術院会員、女流文学者会会員、日本文芸家協会理事、日本財団会長、海外邦人宣教者活動援助後援会代表、脳死臨調委員、世界の中の日本を考える会理事、松下政経塾理事、国際長寿社会リーダーシップセンター理事、日本オーケストラ連盟理事。

 昭和6年9月17日生、東京都出身。29年3月聖心女子大学英文科卒。28年、小説家で元文化庁長官の三浦朱門氏と結婚。29年、「遠来の客たち」で芥川賞候補となり文壇デビュー。作家として執筆、講演活動をこなす一方、日本財団会長や日本文芸家協会理事、その他政府諮問機関委員など多数の公職を務める他、敬虔なカトリック系クリスチャンでもあり、民間援助組織(NGO)である海外邦人宣教者活動援助講演会代表も務める。特に、この後援会での25年間にわたる活動が高く評価され、第4回読売国際協力賞を受賞した。
 45年、エッセイ「誰のために愛するか」が200万部のベストセラーに。54年「神の汚れた手」で、第19回女流文学賞にノミネートされたが辞退。59年臨教審委員。平成5年日本芸術院会員。日本財団理事を経て、7年会長に就任。最近、発表した作品は、海外邦人宣教者活動援助後援会の記録を著した「神様、それをお望みですか」がある。
 その他の主な作品:「無名碑」「地を潤すもの」「紅梅白梅」「奇蹟」「神の汚れた手」「時の止まった赤ん坊」「砂漠、この神の土地」「湖水誕生」「夜明けの新聞の匂い」「天井の青」「二十一世紀への手紙」「極北の光」など。

【受賞歴】
1979年 ローマ法王庁よりヴァチカン有功十字勲章
1987年 「湖水誕生」により土木学会著作賞を受賞
1988年 フジ・サンケイグループより鹿内信隆正論大賞受賞
1992年 韓国・宇耕(ウギョン)財団より文化芸術賞
1993年 第49回日本芸術院賞恩賜賞
1995年 第46回日本放送協会放送文化賞
1997年 読売国際協力賞1998年財界賞特別賞
 



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