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ダムや産業廃棄物処理場をつぶした町長さんたちがあちこちに現れるようになった。一種の新しい英雄である。 ダムや産廃ができると、自然が破壊され、環境が壊され、空気や水が汚れるから願い下げだという人々と、少数派だろうが、それらの建設を機会に、所有する土地を売ってお金を手にしようとする人々が賛成派になる、という解説もあった。山の中や谷間の土地など、なかなか買い手もないのであろう。 自分の町がそうなるのは困る、どこかよそへ行ってくれ、という理論はよくわかる。誰だって利己的で当然だ。ただそうなると、日本の国全体の経営はどうなるのだろう、ということがよくわからない。 「弱い者の味方」「反対派のパトロン」「環境保護」の姿勢を見せる時には、まことに歯切れのいい大新聞も、それなら産廃はどうするのだということになると、我々素人にもわかるような答えを出してくれるどころか、ぷっつんになる。 ダムはもはや新規に建設する場所もなく経済的効率も悪くてダメ、原発も危険でダメ??ならその後をどうするのか。産廃の量は、やり方次第ではかなり減るだろうし、受益者負担の原則はもっとはっきり確立すべきだろうが、産廃が全く出なくなることはないのだろうから、皆に反対されたら、日本は国内で事を解決できなくなり、貧しい国にモノを捨てることなど考えるようになる。 産廃の建設場所は、必ずどこか特定の場所を専有する。さしあたりは宇宙空間というわけにはいかないのだから、例え国有地にそれを設定しようとも、近くの土地、同じ水系の水は影響を被るというので、誰かが、それは困ると言い出すのである。海の上に作ろうとしても、漁業権を持つ人がまた反対を唱える。 自分の土地に産廃建設拒否を言うことは分かるが、それだけでは困るであろう。自分の土地ではなく、どこに、こういう形にしたらいい、という青写真くらいがあって拒否してもらいたい。そうでなければ、断られてもとにかく産廃を作らねばならない立場の人こそ、気の毒である。 しかし誰にも名案があるわけではないのだ。だから、私たちは苦悩しなければならないし、欲望の抑制も必要になって来る。不自由を抑える訓練を学校でもしなければならないだろう。更にそれでも避け切れない運命を個人がいかに受容するかの哲学も必要になる。 マスコミは感傷的に「弱い者」の味方だけしていれば済むというものではない。そこで立ち止まってしまう記事しか書けない記者は「アジテーター」にしかなれない。反対を言いっぱなしの政治や評論は間もなく通らない時代が来るだろう。 その代わり、国民の方にも、問題を学び現実を正視する義務、自分の主張が実行可能かどうかを見てものを言う責任が生じる。 単なる反対をするだけで、ヒューマニズムが完成されると思う時代は過ぎている。
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