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七色の珊瑚礁のなかで ペリリュー島は、大小三百余もあるパラオ共和国の島々を囲む巨大な珊瑚礁群の南のへりに位置している。南北約九キロ、東西三キロ、地図で見ると、この付近の海で獲れる頭の大きなスパイニーロブスターのような形をしでいる。もともと石灰化した珊瑚の死骸が何億年もかかって隆起した島で、その中央部にこの島の最高峰標高九十八メートの山がある。百メート足らずだからといって、なめてかかるわけにはいかない。急峻、断崖絶壁である。 ロブスター型の島の足のつけ根の部分に波止場があった。首都のコロールから船で約二時間。洋上で小型のモーターボートに乗り換える。一面に珊瑚が生棲し、吃水の深い船では、満潮時にしか接岸できない。珊瑚礁の浅瀬を進む。紺青、エメラルド、コバルト、もえ黄、緑。水平線にいたるまで、びっしりと珊瑚礁が展開し、時には太陽光に映えて紫色に変色する。広大な「南海の天然風呂」だ。七色の「バスオイル」の海面を、ボートは疾走する。 ペリリューの波止場は、日本のODAによって浚渫工事が行われていた。珊瑚礁に囲まれた入江は海水が動かない。堆積した砂をとり除き、この国の南端にある燐鉱山の島、アンガウルを往復する二隻のフェリーボート(日本財団寄贈の大和丸と日本丸)の航路を確保するためだという。 昭和七年生まれ、予科練第十四期生だったという中川東さんが波止場で迎えてくれた。「ペリリューで玉砕した日本兵の慰霊のため、七年前からこの島に住み民宿をやっています」と中川さん。白い予科練の戦闘帽をかぶっている。「桜に錨」のマークと黒い横線が二本入っている。今回のパラオ行きを誘ってくれた田淵節也さんが、「私は九州の大村湾で予科練の教官をやっていました」と自己紹介する。 ペリリュー島は、第二次大戦下の日米の有数の激戦地である。昭和十九年(一九四四)九月、米第一海兵師団が五十隻の艦隊で、この島の南西フィリピン海沖に現れた。マッカーサーのフィリピン奪還作戦のための前進基地確保が目的だった。この島には日本海軍航空隊の滑走路二本からなる基地があった。零戦が四十機ほどいたが、マッカーサーの作戦の脅威をあらかじめ取り除き、作戦支援のための米軍飛行場を整備する戦略だった。 ペリリュー島の玉砕については、戦後、いくつかの文献が日本で出版されているが、パラオで求めた米国製観光地図にも、ペリリュー戦記について興味深い叙述がかなり詳しく印刷されていた。この米国製の戦記には、「ペリリュー島の占領は、四日間が予定されていた。ところが、七十五日間もかかった。なぜならこの島は、死ぬまで闘うのが宿命であると覚悟を決めた日本兵で満ちていたからである。米軍は太平洋の闘いで最大の苦戦を強いられ、両軍にとって第二次大戦中の戦闘としては最大級の犠牲者を出した」と記されていた。米側の記録によると、米軍の死者千三十九人、負傷五千百四十二人、行方不明七十三人とある。これに対し日本軍の死者九千八百三十七人。守備隊のほとんど全員が戦死したことを意味している。 血塗られたオレンジ海岸 中川さんの案内で、島内の戦跡を歩いた。米国第一海兵師団が上陸した南西海岸は砂浜であった。五百メート沖合には珊瑚礁が島を美しくとり巻いている。米軍のD・DAYは、一九四四年五月十五日。艦砲射撃の援護のもとに上陸用舟艇に分乗して海岸線をめざした。ルパタス大将ひきいる米海兵師団の兵力は一万七千四百九十人。こらに対し守備隊の兵力は、中川州男大佐ひきいる歩兵第二連隊など一万五百人だった。 案内の中川さんはいう。「守備隊の主力は満洲から転属した水戸の連隊でした。勇猛で知られる連隊でした」と。そういえば水戸山、水府山、大山、高崎湾、向島、東海道など関東の名前を付けた地名がこの島には多い。守備隊にとって戦闘を準備するには、わかりやすい地名が必要である。無名の山、あるいは原住民語を日本兵にとってなじみのある地名に改称したのだろう。 米軍の上陸地点は、海軍航空隊基地から三百メートしか離れていないオレンジ海岸だった。「日本軍は西浜と名付けていたが、後にオレンジと改名された。米国将兵の流した血で砂浜がオレンジ色に変わってしまったからです」と中川さん。米国戦史によると米軍の死傷者の大半は、九日間にわたるこの海岸の上陸作戦によるものだという。「D・DAYの日、十八台の戦車も上陸したが、一台を除いてすべて日本軍の砲火によって破壊された。一インチ前進するごとに一人の死者を出した」とも記されている。 このオレンジ海岸は、「ペリリュー島で最も人気のある観光スポット」と持参の米国製パラオ諸島地図には紹介されていた。日本、米国両国の戦跡慰霊観光団が訪れるだけでなく、ハニムーン・ビーチとも呼ばれ、若い観光客やダイバーも訪れる。 この海岸の満月は大きくて、明るいので人気がある。月光で新聞が読めるともいう。椰子の葉陰で、田淵節也さん一行と昼の弁当を食べたが、そよ風が心地よい。 米側戦史によると、飛行場を失った日本軍は、約五百の洞窟にこもり、戦闘を持続した。日本の九五式戦車と、その五倍も大きい米軍のシャーマン戦車が、半世紀も前の戦闘によって破壊されたそのままの位置に放置されていた。洞窟の闘いは、シャーマン戦車から発射される黄燐弾や歩兵火炎放射器によって、日本軍にとっては凄惨な籠城戦となった。日本兵の白骨の遺体が今でも数多く閉じこめられているという。 これに先立ち、上陸作戦で予期せざる多くの戦死者を出した第一海兵師団は、十月までに、全員、陸軍の第八一歩兵師団(一万九百四十四人)と交代、帰国した。日本軍のペリリューの善戦について、昭和天皇が「ペリリューはまだ頑張っているのか」と感嘆したという逸話も残されている。 「サクラ、サクラ」 この島の最高峰大山(標高九十八メート)の連隊本部に中川連隊長は陣取り、新手の第八一歩兵師団と死闘を展開した。だが大山陣地にこもる兵力は百二十人にまで激減、最後の時が来た。昭和十九年十一月二十四日、午後四時、「サクラ、サクラ……」を打電し連絡を絶った。中川大佐はその夜、自決。これが案内人の予科練出身者、中川東さんの語る日本軍玉砕の最後の模様である。 大山のふもとに日本が戦後建立したペリリュー神社がある。英霊を祭ったものだ。神社の前に、米太平洋軍司令官ニミッツの碑もあった。「旅行者よ、日本兵がいかに勇敢に愛国心をもって闘ったか、祖国に帰って伝えよ」と刻まれている。武人としてのニミッツの「敵ながら天晴れ」の気持ちを表明した銘である。 未曽有の激戦となったペリリューの死闘は、米国にとってどういう意味があったのか。二つの興味深い記事が米国製のペリリュー案内書にあった。ひとつは、この闘いを経験した帰還兵の経験をもとに、米の新兵教育のマニュアルを作成したことだ。それには「戦闘で、恐怖を覚えない奴はカラ元気の馬鹿者だ」「恐怖を感じる兵に憶病といってはならん」とある。そして、日本兵との死闘のなかで、実際に体験した米兵の恐怖についての調査が付録として付いている。「心臓が破裂しそうに感じた者」八四%、「胃袋がひきつった者」六九%、「震えが止まらなかった者」六一%、「冷や汗」五六%、「吐き気」二七%、「腸不全」二一%、「小便の失禁」一〇%……と。もうひとつは、米国にとってのペリリュー戦の戦略的有効性への疑問である。「マッカーサーのフィリピン奪還作戦というが、こうむった損害に比しペリリュー島の日本軍のもつ軍事資産は、ほとんど価値がなかった」これは後講釈だが、ペリリューで日本の守備隊が頑張っている間に、レイテ上陸作戦は開始されていたのである。 この二つの記事は、米国のプラグマティズム哲学にもとづく戦争観を端的に表すエピソードといえまいか。日本のペリリューに対する戦史観は、徹底抗戦によって米国の比国上陸を遅延させたとの評価だと聞く。この日米の激闘、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の日本と、「恐怖を感じない兵は馬鹿者だ」の米国との文明論の激突でもあった。どちらが正しいのか。いまさら、それを詮索しても始まるまい。戦争とはそういうものなのであろう。
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