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全世界の船員の質を安定させるために、主な商船大学が集まって「世界海事大学連合」という組織を作るのに、私の働いている日本財団が経済的支援をすることになって、その発会式のためにトルコのイスタンブールに行った。 この頃の商船は、日本人だけの乗組員でかためているなどということは、労賃の関係でできなくなってしまった。いろいろな国籍の乗組員による混乗という状態は普通になったのである。そういう現状に照らして、世界的に船員の訓練のカリキュラムを統一し、質を向上させよう、というのが目的である。 「トルコはお初めてですか?」 と会う人は気楽に聞いて下さる。 「ええ、昨年もイスラエルに行く前に、身障者の方とご一緒に来ています」 嘘ではないから、そう答える時もある。 しかし前があるのだ。二十年前、私はかなり視力を失っている時にここへ来た。旅の目的は聖パウロに関係のある土地をすべて歩くことだったが、私は直前になって参加する自信を失っていた。道はどうやら歩けるが、自分がつい今しがた下りたバスさえも、少し離れるともうどこに止まっているか見つけられない。しかし弱気になった私を仲間が支えてくれた。「大丈夫です、人混みの市場のようなところを歩く時でも決してソノさんから眼を放しません。誰かが必ず見張ってます」と言ってもらったのである。 今度、車が坂道の途中のディヴァンというホテルの前を通りかかった時、再び二十年前の思いがよみがえって来た。その旅の時、私たちはこのホテルに泊ったのだ。実際の照明が暗いだけでなく、当時の私の眼は、晩年に白内障に苦しんで二度と回復しなかったモネと同じように、どんどん光の入り方が少なくなっていた。ホテルの部屋は私の心象風景のように暗く息詰まるようだった。しかし私は何とかしてこのどん底から這い上がらねばならない、と感じていた。恐らく書けることはないだろう、と思いながら、長年の習慣から断ち切れない思いで携行していた原稿用紙を、私はこのディヴァン・ホテルの部屋で取り出した。 紙に眼を五センチくらいまで近づけなければ何も見えない。大きな字で原稿用紙の枡目を埋めると一分くらいで激しい頭痛が始る。当時の私の眼には三重視があった。信号機の赤も、米俵を積んだように三つずつ見える。自動車も、同じ自動車が必ず三台ずつやって来るのである。 しかし私はそのディヴァン・ホテルで「賛美する旅人」という短編集に収められることになった作品の第一行目を書き出したのであった。 私の視力障害の原因は、先天性の強度の近視のために荒れた眼底と、四十代におきた両眼の中心性網膜炎と、その治療の手段として眼球に直接注射したステロイドのために急速に進んだ後極白内障である。白内障は簡単な病気だが、私の眼底は必ずしも手術の結果に希望を持てるとは言えなかった。
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