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オウム真理教以来、宗教というものはすっかりいかがわしいものとされるようになった。しかしそんなことはない。宗教などまっぴらという人もいるのはよくわかるが、宗教がその人の精神のバックボーンになっている場合もある。いずれにせよ、まっとうな宗教は、金儲けと無関係であるはずだ。 公立学校でも、宗教の時間があって少しも差し支えないだろう。実現可能な方法としては、仏教、神道、キリスト教くらいに分かれて、それぞれ校外から講師を招いて話を聞くのはいいことだ。たとえば私は一応キリスト教徒として育ったのだが、知識として仏教を知りたいと思ったら仏教のクラスに出席する。同時に仏教の家に育っても、日本人だから神道のことを知りたいと思ったら神道の教室に行けばいい。中学高校共、大教室でやれば、大勢が同じ講義を聞ける。先生には長い年月その道の専門家として活躍した人の、やや老後の仕事として受け持ってもらう。 音楽や美術を学ぶ人の中には、キリスト教を信仰としてではなく、芸術の理解のために学ぶ人もいるだろう。同様に、仏教国の民俗学をやりたいと思う人が、学問の理解のために仏教に触れることは自然なのである。 アメリカにはユダヤ教もイスラム教徒もいるが、合衆国大統領が、就任式の時、自分のキリスト教の信仰にしたがって、聖書に手をおいて宣誓をすることを誰も少しも不思議に思わない。個々の国民の信仰の自由を守るということは、同時に自分の信仰を表明することでもあるからだ。どこかの国のように、靖国神社に閣僚がお参りすることにいちいち難癖をつけること自体が、他人の人格へのあってはならない干渉である。 私はキリスト教を理解するために、ユダヤ教を勉強した。その結果、ユダヤ教徒にはなれないのだが、ユダヤ教の思想の理解者だと思っているし、歴史的にユダヤ教の占めた高度の文化・制度に深い尊敬を払っている。キリスト教はユダヤ教からみれば、たかだか二千年の歴史しかない新興宗教なのだが、そのようなことをすべて承知の上で私はなおキリスト教徒なのである。 先日、私の働いている財団が、スペインのビルバオにあるデウスト大学で出している奨学金の効果を調べに行った。スペイン人だけでなく、言葉が同じだからという理由で、南米から来ているインディオの留学生たちにも奨学金を出してくれていた。 他にイスラム原理主義について学んでいるというパレスチナ人の学生もいた。原理主義が一部の破壊的な行動を取る人の行動だけで判断されるのは、まことに残念なのだという。彼は優しい人で、エルサレムに行った時買ったというイスラムの「エル・アクサ・モスク」を描いた絵皿を私にくれた。イスラム側から見たエルサレムという町の存在感に、私は新たな感動を覚えたものである。
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