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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 星と蛍の土地  
コラム名: 昼寝するお化け 第184回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 1999/08/06  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   七月十五日付けの「世界日報」という統一教会系の新聞に、新垣哲司という沖縄県議会の議員さんが、議会の中で「天皇陛下万歳、日本国万歳、沖縄県万歳」と万歳三唱したという記事が出た。
「与党議員数人も座ったまま呼応した。
 これに対して、野党が猛然と反発。議会は八時間も空転し、深夜になって延長手続きが取られて翌日に質問が再開される事態となった。友寄信助議長は新垣県議に対して本会議場で注意をするという妥協案を野党側に示したが、新垣議員は一歩も譲らない姿勢を貫いた」
 と「世界日報」は報じている。
 この新垣議員は叔父が宮司であり、神道の出の人であるという。さらにその叔父から、戦前最後の沖縄県知事として危険を知りつつ赴任した島田叡知事のことなどをよく聞いていた。島田知事は、県民の安全のために働いた後、県民の挺身隊や警察警備隊を解散させ、「民間人として投降せよ」と命じた後、自決した。
 わからないのは、この新垣議員の行為で議会が八時間も空転したということだ。新垣議員がこういう考えの人だということは、今までにいくつかのエピソードがあってわかっていたらしい。県民はそれを承知で、この人を選んだのである。
 議会政治の基本は、いろいろな人がいるということである。違った考え方の人が、自分の立場を明白にして、自分はこういう主張をします、ということを社会に示して、それで支持を受けて当選することになる。
 沖縄と言えば、県を挙げて日の丸・君が代に反対という印象を本土では多くの人が持っているのではないか、と思う。新垣議員のような人がいることも私は知らなかったし、大田昌秀・前知事の真意も、私は最近までもちろん聞いたことがなかったのである。そういう印象を与え続けたのは、土地の二紙と本土の全国紙である。だからこういうニュースを読むと、おや、そうでない人もいたのか、という感じになるのだが、反対の人もいてこそ、沖縄の政治が民主的に行われていることを示す証というものだろう。反対派がいなかったら、それこそ専制政治である。
 大田前知事と或る日、親しく語ったことがあるという人の話を聞いたことがある。その席で知事は少し飲んでいたが、決してひどく酔っているわけでもなかったのだそうだ。夜でもあり、公的な仕事は終わった後だったので、その人も気楽な気分で尋ねたようである。
「今、沖縄が自由に帰属を決められるとしたら、大田さん個人としては、どちらなんですか。日本なんですか、中国なんですか?」
 すると大田知事は言下に答えた。
「それはもちろん、中国ですよ」
 大田知事の意向がわかったら、中国は大喜びですぐさま沖縄を中国領にする計画に着手するだろう、と私は幼稚なことを考えた。
 人の好みと判断は自由でいい。どちらでもいいが、それを明確にすることは政治家としては任務である。
 ベルリンの壁崩壊前には、ソ連とアメリカと、両方の旦那に色目を使って、どちらにつけばうまく行くだろうかと考えて身を処していたとしか思われない国が世界中に幾つかあった。それはそれで一つの外交上手ということになるのかもしれないが、今風に言うと、沖縄の帰属問題も、もっと以前に一度住民投票にかけてもよかったことかもしれない。もちろんこれは、アジア全体の安全や平和の力関係について、恐ろしく危険なことだろうが。
 台湾にせよ、沖縄にせよ、一番大切なのは、そこに住む人の希望である。ダム一つ作る作らないにしても、民主的な方法によって当事者の希望が優先して当然だ。その代わり過半数の当事者は、決定の責任を負わなければならない。後からこういうことになったが、具合の悪いことが出て来たから国が何とかしろと言われても住民投票の結果なら国は責任を負えないだろう。
 
選ぶ理由とその結果の責任
 長い間日本では、このルールが守られていなかった。政府が決め、住民が反対する。その場合、住民の権利はいささかでも侵されるのはいけない、ということが常識になった。
 しかしそれは間違いである。私たちは、誰にも全く自己の権利や利益を侵されないで、便利だけ得ることはできない。自然の真ん中で、都市と同じ機能を享受することはできないのである。蛍や星が見えなくなった、自然破壊だと文句を言うのは簡単だが、自然が手つかずで残っている所には、雇用先などあるわけはない。そういう所では、人は皆、自然の脅威と楽しさの双方を受けつつ、今の私たちの生活よりは、はるかに多くの制限を受けて暮らすことを、納得するべきなのである。
 これからは、反対するときには、自ら代案を持つか、たとえそのことのために不自由や危険が招来してもそれを受容する覚悟がいる。そのことを今から、私たち国民がすべて学ばねばならない。民主主義というものは、国民一人一人が自ら決定するのだから、本来そうした勉強が必要なものなのである。
 私は毎年、アフリカの最も貧しい地帯を見るために、霞が関の若手官僚と、意欲のあるマスコミの人たちと、私の働いている日本財団の若い人たちと、三者合同の勉強の旅をする。今年も今のところはコンゴ民主共和国、チャド共和国、マリ共和国の三国に寝袋を持って入る予定だが、その時も、私は誰にも安全を保証したりしない。それは人間としてできないことだからである。
 もちろん私たち企画者は事前調査をする。持てる限りの安全のための知識を、すべて伝える。保険を掛けるのは当たり前だ。何より私自身が全行程を同行する。
 しかし本来、私たちの生活に安全は保証されていない。殊にアフリカは、悪路、病気、政情や気候の悪さなどがつきものだ。その危険や不便を承知で、人生を見たいという人だけと同行するのである。私が強制的に連れて行くのでもない。彼らが働く役所や会社も、嫌がる個人を強制的に送ることなど、現在ではできないであろう。行く行かないは、すべて個人の選択の結果である。いささかでも危険や不自由が嫌な人は、初めから行くことを拒否すればいいのだし、それはまた可能であろう。
 選ぶ自由とその結果の責任を、戦後の民主主義はあまり明確に教えて来なかった。また人間誰でもが「推測」できる範囲にも、限度があるという当然のことも教えなかった。
 自分は考えることを放棄して、人がしようとしていることに反対だけしていることほど楽なことはない。
「それじゃ、あなたならどうするか」と聞かれた時、私はたいていのことに自分の解決方法を持たない。だから同胞である日本人の中の、素人にではなく、その道の専門家という人の意見に私は今後も運命を委ねて、後は諦める。それが私の選択なのである。
 



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