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何か理由はよくわからないのだが、奇妙に心に残る話というものがある。 先日日本の富裕な遊び人に殺されたと言われているルーシー・ブラックマンさんというまだ二十歳の英国人女性の父は、娘の遺体を引き取りに日本を訪れた。ルーシーさんが殺されて埋められていたという海岸の洞窟(どうくつ)は、私の海の家から湾一つ南下した所にある。 その辺一帯は本来は明るい海辺なのである。しかし遺体が埋められていた洞窟は満潮の時には、潮が差すか、船虫がちょろちょろと歩く湿った暗い寂しい場所なのだろう。 しかしルーシーさんの父、ブラックマン氏は、洞窟を出たところで、眼前に開けた「美しい海に慰められた」のであった。 海は厳密に言えば相模湾だが、つまり太平洋である。そして相模湾は、その夕陽のみごとさで有名だ。一日として同じ落日の様相を示すことはない。だから海辺の土地の眺めは毎日が幼児のように新鮮である。 いつの日か地球が死滅する時は必ず来るのだろうが、眼前の海はほとんど永遠を思わせるように変わらない。海は常に動いている。そして動くものは、それが風を受けた木々の梢であれ、降りしきる雨であれ、飛び交う海鳥であれ、すべて生そのものである。 ブラックマン氏は遺体が埋められていた洞窟の前でこの海の息遣いを聞いた。娘が生き返るものでもない。無残なほど生そのものである海と、若くして絶たれた娘の生命とは、どこでどう結びつくのかもわからない。しかし不思議なことに、その海は氏の悲しみを癒した。死んだ娘もこの海の音を聞いていたと思うと、どこかに救いがあった。 海も大地も、今まで実に多くの生命を呑み込んだ。海と大地に消えるのが人間の運命であった。だからそれでいい、とブラックマン氏が感じたかどうかはわからない。 この洞窟は、心ないことに、その辺の名所になりかけているという。そして地元の人が先日私に教えてくれた。あまり多くの新聞記者が押しかけて、一家の悲嘆の場を見ようとしたので、この父は怒って、カメラマンの三脚をひっくり返したりした。普段、人道を口にするのが大好きな新聞が、一番労りもなく人道的でもない行為をしたのだ。それなら初めから、こちらの仕事は、人道とは関係ありませんよ、と言っておけばいいのに。 一つの光景が、きれいごとだけで済むこともないし、全く救いがないこともない。
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