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昨日ミャンマー、昔のビルマ、から帰って来たばかりである。土地の至るところに、戦争中の闘いで亡くなった日英両軍の英霊がみちみちていると感じられる土地である。 マンダレーでは、城塞の壁と堀を照らす満月を見た。少し感動し、私の生涯を振り返る思いであった。私は小説を書きたい、という思い以外、あまり自分から積極的に或ることを求めたり、道を開こうと思ったりしたことがない。望みはするけれど、現世は、決して人の思うようにはならないものだということだけが、子供の時から心に染み付いているから、決して多くも強くも求めなかったのである。、作家になり、日本財団というところで働き、今その仕事との関連でミャンマーに来ている、などということが私には信じられない思いであった。 ミャンマーでは、英字新聞で私の眼に入ったのはたった一紙であった。『ミャンマーの新しい光』という新聞である。他にもあるのかもしれないが、毎日出歩いていて、時間がないものだから、それだけ読む。すると、中に大変目立つ囲みの部分があってそれだけは毎日印刷されていることがわかった。それは次のようなものである。 〈政治的四つの目標〉 ★国家の安定、社会の平和と平静、法と秩序の普及 ★国家的統合 ★新しい強固な憲法の緊急整備 ★新憲法に相応しい新しい現代的な進歩した国家の構築 〈経済的四つの目標〉 ★農業開発を基盤とした経済全体の発展 ★市場経済システムの適切な発展 ★経済を発展させ、技術的なノウハウの参加を招き、内外の投資を呼び込むこと ★国家と国民が掌握すべき国家経済の積極的な形成 〈社会的四つの目標〉 ★全国民の士気と道徳の向上 ★国民のプレステージと統一性を高め、文化的伝統と民族的性格を維持、存続させる面での向上 ★ダイナミックな愛国心の向上 ★全国民の体力、教育水準の向上 このようなスローガンが毎日、新聞に印刷されるのである。 私たちは他国のやり方にはいささかの批判をも加えるべきではない。それはその国民の選択だから、むしろ敬意を払わねばならない。しかし同時にまた私たちの国家との違いもよく知らねばならない。 ここには、個人の精神の自由などは全くうたわれていない。もし日本で「社会的四つの目標」などというものを国家が挙げようとしたら、とたんに猛烈な反撥が起きるだろう。「そんなことは余計なお世話だ。それは個人の自由な魂の領域だ。ほっておいてくれ」という日本人が多いだろうと思う。しかしそうでない国家もこの地球上にはたくさん存在していて、それぞれの道として歩んでいるのである。そういう現実さえも、日本人は正確に意識していない。 ミャンマーといえば今日本でもっとも有名な人はアウン・サン・スー・チー女史だと思うが、ミャンマーでは彼女の名前を一度も聞いたことも読んだこともなかった。タクシーの運転手さんに「スー・チーさんという人は人気があるんですか」と聞くと、怒ったように「そんなむずかしいことには答えられない」と言う。「じゃ個人的にあなたはスー・チーさんが好きですか?」と聞くと細かいニュアンスはよくわからないが、「そういう(危険な)質問に答える人はいない」という返事である。通訳を介してだから、厳密な答えではないが……。 とすると、とにかく一つのことははっきりした。スー・チー女史の手記の連載を載せた『毎日新聞』は、現時点では、現政権をはっきりと敵に廻したということだ。 私は日本の一つの新聞が、現政権をかなりはっきりと敵に廻して悪いと思っているのではない。それも一つの新聞の姿勢である。ただその自覚がはっきりとあって、あの連載を企画したのでしょうね、と確かめたい気はする。あの連載を出しておいて、自社の記者がミャンマーへの入国ヴィザを拒否されても、それは文句を言えない。その困難を認識した上でスー・チー女史を支援するなら、それも一つの明確な態度である。もっともミャンマー政府が寛大ならスー・チーさんの手記を載せても毎日の記者を入れるだろう。 少し脇道へずれるが、ミャンマーに行って、スー・チーさんのあのトレードマークの生の花の髪飾りも、かなり特異なものだということがわかった。私が上流階級や権力者のパーティーなどに一度も出る機会がなかったせいかもしれないが、ああいう髪飾りをしている人を、一人としてみかけたことがないのが驚きであった。 理由を聞いてみると、昔はよくああいうことをしたけど、今では少しやり過ぎ、という感じがするという。この言葉のニュアンスも実は私にはよくわからない。私はたくさんの助産婦さん、看護婦さん、村の人たちに会ったが、花をつけている人は一人もいなかった。ただ櫛巻きスタイルの女性はよくいた。私たちがよく使うような普段遣いのプラスチックの櫛をうまく使って、髪を結いあげそのまま櫛で留めている。ちょっと古風だが、ほっそりした肩やうなじを、実にきれいに見せている。 はっきり言って、軍政の国の新聞は私には実につまらない。制服を着た軍人が視察だのテーブルに向き合っている姿ばかりが紙面に出ている。しかし中に、そうでない記事があると、いっそう新鮮に思えるからおもしろいものである。 九月十二日に、シーン・マッコイ(34)という人がパラグライダーに乗って、フロリダのキイウェストを出発し、キューバのヴァラデロというリゾートに着陸した。距離は百七十五キロ、六時間五十五分の飛行だったと言う。 この一家は、親子二代の冒険家、スポーツマンらしい。彼の父は、元キイウェスト市長で、一九七〇年代にウォーター・スキーで名をなした人だと言う。マッコイは午前九時二十五分に、黄、青、紫に塗り分けられたパラグライダーで出発した。きれいな飛行だったろう。亡くなられた本田技研工業の本田宗一郎社長が、いつかスイスでかなり長い時間、二人乗りのハングライダーでアルプスの飛行を楽しまれたと聞いた時、私は心から「羨ましいなあ。やっぱり社長さんはいいなあ」と思ったことがあるが、マッコイの七時間に近い飛行も、まさに人生を謳歌するものだったろう。 もっとも私はパラグライダーに乗るということがどれほど力が要るものか、くたびれるものか全くわからないからそんなことを言うのかもしれない。私は最長でラクダに三十分くらい乗ったことがある。初めは姿勢を正して乗っていたが、直ぐに「下りたいーッ」という感じになった。いっしょに乗ったグループの中に、若い神父さまに抱き抱えられた九十六歳の女性がおられて、その方も頑張って乗り続けておられたので、私は辛うじて見栄で途中で下りることをしなかっただけであるが、ラクダに乗るのはラクダじゃない、とそれだけが酒落にもならない実感である。 しかしやはり冒険はいいものだ。冒険は心の寿命を延ばす。若い日に冒険をしておくと、たぶん死に易くなる。 それがいいことかどうかは、よく考えてみなければならないことだが、外国の新聞はかなりはっきり報道写真や実名を載せる。大きな犯罪なら未成年でも顔写真と本名を載せる。九月五日のシンガポールの『ザ・ストレイト・タイムズ』には壁の前に繋がれた二人の人物の公開銃殺刑の模様を報道している。 チェチェンのグロズヌイでは、イスラムのシャーリア法によって殺人を犯した男女一人ずつが死刑を宣告された。この男女は殺しを請け負ったからであり、真偽は別として、もう一人女が殺人計画に関与しているというが、彼女は妊娠中なので、処刑は延期されているという。 胎児には生きる道を与える、ということで筋は通っているように見える。しかしこのような惨憺たる人生もあるのだ。出産までの彼女の思いはどんなだったろう。子供を生んでもその子の成長を見ることもできない。そしてまた子供も、事実を知れば大きな心の傷を受けるだろう。 手錠を掛けられた二人は壁の前に立たされた。二千人の人がその公開処刑を見物していた。四人の覆面をしたエリートの射撃部隊の兵士がその前に立った。 銃声が響いて、数秒で終りだった。壁によりかかるように倒れた人の右腕だけが高く、固定された手錠に吊り上げられていた。そして民衆は叫ぴ出した。「神は偉大なり!」。医師が来て二人の死亡を確認した。 チェチェン大統領アスラン・マスハドフはこの死者の名前を彼らが所属する部族名と共に、ローカル紙に発表することを命じた。チェチェンのイスラム社会は、今でも強力な部族で固まっており、人であるということは部族の一員である、ということである。もし部族の一人が、別の部族に殺されたら、犠牲になった人の部族は報復の義務があるのである。 これも一つのれっきとした彼らの正義なのである。 我々は簡単に国際理解を深めましょうなどという。しかし理解した後でどうしようというのだ、ということまで思うと、私など絶望的になる。彼らに復讐を止めなさい、といかにもキリスト教徒的な立場で言うことは簡単だが、そうすれば、彼らの正義、彼らの信仰は、根本から崩れるのである。
一人の男の写真は真面目な事務員が、机に向かって仕事をしているという情景である。彼の名前はソンポン・ルエダーラン(タイの名前を私には正確に表記できないことをお許し願いたい)。初めはすばらしい美談の主人公として登場した。 彼はタクシーの運転手だった。そして空港で彼の車の中に総額約七千万円に上る現金や他の金目のものを置き忘れたフランス人に、そのすべてを正直に返したということで、彼は一躍世間の賞賛の的になったのであった。ところがこれは全くの作り話だったのである。 彼が詐欺罪で警察に捕まり、美談は嘘だったという自供をすると、被害の波は、彼の妻と子供に襲いかかった。妻は学校の教師だったが、彼ら夫妻の子供たちも、同じ学校で学んでいたのである。 「子供たちは友達からいじめられるので、私は厳重に止めなければなりませんでした」 とその学校のニッティ・レルトライ校長は『ザ・ネーション』紙の記者に語った。 「一番上の子は娘なんですが、もうこれで二日も何も食べないんです。そして『私はもうこれから、お父さんの言うことは何も信じない』と言っているんです。 一番下の息子は、明るい性格でしたが、がらりと変わってしまいました。今、彼は無口になり落ち込んでいます。彼ら親子は、今食堂でではなく、母のいる職員室でお昼を食べることを好んでいるみたいです」 記事には前段階があったらしい。私はその記事を読んでいないので、不正確かもしれないが、ラジオの電話番組の時間に一人の人物が電話をかけて来た。そして自分の友達が、フランス人の忘れものを正直に届けた、という話をしたのである。しかし自分がその人物だと言って現れたソンポン・ルエダーランの声を警察が分析してみると、それは、最初に電話で通報してきた人物の声と、声紋が全く同じだったというのである。 人間は追いつめられると、何でもするということがある。しかしこの人物は初めから、しなくてもいいことをしたのである。 しかし多分これは一つの精神の病気だろう。私は子供の時に、友達に一人、これと同じような、つかなくてもいい嘘をつく人を見たことがある。こちらが追いつめたのでもない。彼女が夢のような話を私に聞かせてくれた。彼女の家には鳩の塔があるのだという。私が溜め息をつくように「よそのうちはお金持ちなんだ」と思っていると、彼女は私にその中から一羽をくれる、日曜日に持って行ってあげる、と約束したのである。 私は心を躍らせて日曜日を待った。母は渋い顔をしていたが、彼女は空の籠を持って家に現れた。家を出る時まで鳩を入れていたのだが、ちょっと戸を開けた隙に逃げてしまったのだ、という。その日に私は母から、彼女がそういう病気なのだろう、と説明されたのであった。 子供の時にこういう病気があることを知って、私はほんとうによかったと思う。虚言そのものを弁護するわけではないが、精神の病気がそういう危険で派手な目立ちたがりの行動を取らせるのだ。だからこれは治癒するということもないだろうが、深く非難することでもない。何より子供たちは可哀相だが、彼らもまたかつての私のように、その事実を冷静に受け止め、父親とは全く別の人生を歩くようになるだろう。 それはいつもと同じような日曜日であった。三十歳のムスリマは市場で魚を売るのを商売にしていた。 彼女は九カ月前に、夫のロバイ・ビン・バルノと離婚した。夫と彼女は同い年であった。彼女の方が、荒々しくしかも嫉妬深い夫の性格に嫌気がさしたらしい。 この離婚はしかし幸福な結果をもたらしたはずであった。恐らく夫との結婚生活の間に、彼女は夫の幼友達のマスルディン・ヘンドロンウルディンと心が通じるようになっていて、夫との離婚の後は彼と暮らすことになったからである。 しかしロバイはまだ別れた妻に未練があった。ことに彼女が子供の時からの親友のマスルディンと幸福に暮らしているということは許しがたい屈辱だった。 その日曜日、マスルディンとムスリマが仲良く商売をしている市場にロバイはやって来た。男たち二人はそこで口論になり、ロバイは手にした草刈り鎌で、マスルディンに九回切り付けた。妻のムスリマの前でマスルディンは深傷を負って倒れ、そのまま絶命した。 歌舞伎の舞台にありそうな話である。しかしこれはインドネシアの北ジャカルタ警察で実際にあった事件だと言う。 どこを見ても悲しい話ばかりだが、これが人生と言うものだろう。
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