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昨年から私は毎年一回、特別な目的を持った旅に出ることにした。アフリカや南米の極貧の農村はなかなか余所者が入りにくい。しかしそういう土地の末端の現実を知らないと、世界の情勢を誤って考え、国際関係も援助のポイントも狂うことになる。もちろん二、三週間行ってわかることではないが、それでも現地を見ればひどい誤解だけはしなくなる。 幸いにも私には昔からそれらの土地で看護婦や教師として働いている修道女の友人たちがいた。彼女たちの好意で普通の旅行者の入れない土地に入れてもらう。今私が働いている日本財団の職員の教育が目的なのだが、それだけではもったいないので、マスコミ、霞が関の若手官僚も誘うことにした。 今年はコンゴ民主共和国(旧ザイール)、象牙海岸(コートジボアール)、ブルキナファソの三国に入る予定だった。いずれもアフリカの中央部に位置する国である。貧困な村の実態を見る他に二つの目的もあった。象牙海岸には「プルーリ・アルサー」通称ダロア腫瘍と呼ばれている悲惨な皮膚病がある。象牙海岸国内の患者は数百人だが、全世界には三千人以上もいることもわかり、WHOが行う治療法の研究に日本財団が五十万ドルを出すことになった。さらにブルキナファソではもともと「笹川クローバル2000」という地道な農業改革をやっているから、土地の暮しに触れるきっかけは多かった。 八月四日に異変の第一報が入った。コンゴのルワンダ国境近くにいる政府軍に反乱が起きたのである。同日、東部のブカブとゴマの二つの町は反乱軍の手に落ちた。又もやフツ族とツチ族の抗争である。カビラ大統領は、少数派ツチに対立するフツを押さえられなかったといわれる。七日に外務省は在留邦人や旅行者に「退避勧告」を発令。十日には現地の国連難民高等弁務官事務所の出先機関が襲われ、コンピューター、私物もすべて没収され、職員はブルンジ経由で脱出。コンゴ民主共和国にはこの時点で約四十人の日本人がいたが十七日までに学者五人は自力で脱出、大使館員を含む二十五人がフランスのチャーター機で脱出するはずだったが着陸が許可されず、フランス政府がチャーターした船でコンゴ川を渡り、隣のコンゴ共和国ブラザビル経由、ガボンに入った。日本政府は、まだフランスに自国民の救出を委ねている。 三人の日本人シスターたちは、残留した十四人の日本人の中にいた。多分残るだろう、と私は思っていた。そのうちの一人、シスター中村寛子は以前アンゴラでもゲリラに捕まって四十五日も山野を引き回された人である。その間、日本側は彼女の生死もわからなかった。帰って来た時、これでシスターも少しは日本でゆっくりするかと周囲は思ったらしいが、シスターは少しも懲りず、次はアンゴラに少しでも近い国で働くと言い出した。アンゴラから出された時、二度とこの国には入らない、という誓約をさせられていたのだという。私がシスターのことを「コリないシスター」と秘かに命名したのは、その頃のことである。 その結果シスターはフランスで言葉の勉強をしなおしてから(アンゴラはポルトガル語であった)ザイールに入った。コンゴ民主共和国の前身である。私の関係している海外邦人宣教者活動援助後援会は、シスターが働くことになったボーマの障害児学校の通学用に、スクールバスを二台送った。 今度の政変後、シスターが私に最後のファックスを送ってくれたのは八月十四日である。絵の上手なシスターは悠々と、椰子と小屋のカットまで描き添えてくれた。 私たちを迎えてくれる現地の用意は実に温かく整えられていたのであった。皆がっかり、私もがっかりした。私一人ならもしかすると行ったかもしれない、という思いは何度も私の頭を掠めた。しかし十七人が動乱の地に入ったら水や食糧を確保するのも大変だし、その上脱出の手段をこうじるのも容易ではなく人に迷惑をかけることにもなりかねない。私はシスター当ての最後のファックスに「あなたはほんとうに『政変女』ですね。(雨女というような意味で……)」と書いた。以下がそれに対するシスターの返事である。
確実に重い手応えで生きがいを感じられる地 「昨日八月十三日、キンシャサから四百キロ離れたところにあるコンゴ自慢のインガダムから送電が絶たれて、キンシャサはほとんどマヒしてしまいました。水もなくなり、六百万人の市民がコンゴ反乱軍(ツチ族)にインガを落とされたと暗澹としてしまいましたが、本日お昼頃また電気がつき水も出るようになりました」 それでシスターは私にファックスを送ってくれたのである。 「八月二日から始まった混乱で、カンルカのシスターたちのジープは偽の兵隊八人に盗られ、不自由になりました。カンルカの住民たちは診療所や学校でお世話になっていて、自分たちの車のように思っていたので、悲しんでいます。 今日午後、外国人出国のため、最後のフランスの飛行機で、高野大使始め館員の方々はガボンのリーブルヴィルに発たれたはずです。何度も一緒に出国するようにとお電話を頂きましたが『政変女』がいないとこの動乱もおもしろくなくなるでしょうから残りました。シスター高木裕子も、聖心会のシスター嶋本操も残りました。コンゴは『コリないシスター』だらけです。お勧め頂きましたように、私たちの携帯電話で修道会の本部に電話いたします」 私は最後に送ったファックスの手紙に、脱出に必要だったら、私が後で補填しますから誰からでも借金をして来ること、電話も誰か携帯を持っている人に借りて安否を伝えること、を頼んだのであった。引揚げの混乱の中でも誰か必ず携帯電話を持ったヨーロッパ人がいて、その人が残るシスター中村たちに心惹かれ、「電話を使いなさい」と言ってくれるだろう、などと想像していたのである。 手紙には少しも差し迫った悲壮さはなかった。「コリないシスターズ」というのはグループ・サウンズの名前としてもいいのではないだろうか、と私は考えていた。 私がシスターたちはたぶん残るだろうと思ったのは、彼女たちはコンゴにいる限り、日々確実に重い手応えで生きがいを感じていられるからである。それは安穏で豊かな日本では、ほとんど絶望的に与えられないものだからであった。 シスター中村寛子は昔、山口県モーターボート競走会の職員だったが退職して修道女になった。私の働く日本財団はモーターボート競走の売り上げ金の三・三パーセントを受けて働いている。そのことを知った時私は呆気にとられた。こんな嘘のような話がほんとうにこの世にあるのだ。 今彼女たちの安全を守れるのは神と周囲の人たちの敬愛だけだ。 (八月二十三日)
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