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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 銀河飛行  
コラム名: 私日記 第12回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2000/12  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  二〇〇〇年九月八日
 ボリビア国サンタ・クルスに滞在。
 私はこの国に、言葉はほとんど通じないのに、心は深く結びついていると思われる人が二人いる。いずれも貧しい人々のために働いているサレジオ会の神父で、イタリア人のヴィセンテ神父とオクタヴィオ神父の二人である。
 二人はイタリアの神学大学で勉強中、同級生だったボリビアの神学生ティト(現在、司教)に「ボリビアのために働いてくれないか」と言われてこの国で一生を捧げることになった。
 まずヴィセンテ神父のやっている「レナータ学園」と結核患者たちの「アントニオの家」を訪問。「レナータ学園」は、私の働いている海外邦人宣教者活動援助後援会が建物の建設費を出していたが、壁画もきれいに描かれた明るい校舎ができていた。
 結核患者の発生する次第は次のようなものである。山岳地方に住むインディオたちは現金収入がないので、都会に出て来て稼ごうとする。しかし働けるのは、薄給で体力を使う厳しい仕事だけだ。ろくなものも食べず、家族と離れての生活はおもしろくない。安酒を飲んで女ができる。そのうちに結核になる。しかし字が書けないから、郷里の妻に手紙も出せない。結核は急性期を過ぎても、すぐには働けない。そこでこのヴィセンテ神父のアントニオの家が病後の療養期間のシェルターになっている。患者たちが作っている民芸織りの箱やキイ・ホルダーなど、私たち皆がたくさん買ってお土産の調達を済ませてしまった。神父は私たちが送った結核の薬の貯蔵庫を律義に案内する。
 お昼にはサン・ファン・デ・ディオス国立病院へ。国立とは言いながら、イタリア人の修道女たちが住み込んで、この古い病院を磨き続け、その運営を見張っている。シスターたちから注文されていた薬を手渡し、ついでにおいしい毛作りのラザーニア、バナナ、マスカットの葡萄酒、お菓子の昼御飯を御馳走になる。午後の訪問先、オガール・ファティマ(孤児の家)、少年たちのドン・ボスコの家、カーサ・デ・アコヒーダは崩壊した家族が短期間逃げ込む施設。いずれも、オクタヴィオ神父が、子供たちの父親の役目をしている。
 夜は倉橋神父のエキペトロル教会でラーメン・パーティ。
 
九月九日
 車で約二時間かかる日系移民の開いたサン・ファン移住地へ。海外邦人宣教者活動援助後援会はサン・ファンのボリビア人の子供たちの学校へずっと給食の資金を出していた。今度は雨天体操場の屋根を作っている。学校の施設だが、村の多目的広場にもなる由、村長さんが挨拶に来てくれた。
 二軒の日系移住者の家族を訪問した後、移住地の中のユートピア食堂で、多分生涯に初めてで最後の子豚の丸焼きを御馳走になる。サン・ファンまで戻って、夜ロイド・アエロ・ボリビア機で、リマヘ出発。飛行機高度取れず、町の灯を足下に舐めるように旋回し続ける。サンタ・クルスは独特の環状線を持った町並みなので、飛行機がサンタ・クルス市上空を旋回し続けているごとがいやでもわかるのである。ふと隣席のカメラマン犬飼政雄氏を見ると、眠りこけていたので、事故で死ぬなら眠ったままの方がいいと思い、わざと起こさなかった。飛行機はサンタ・クルス空港に戻り、整備の後再離陸。
 リマでは夜遅いのに、アリトミ駐日大使、マヌエル.加藤神父も待っていてくださった。
 
九月十日
 午前中、加藤神父が計画中の日系老人ホームの定礎式に出席。海外邦人宣教者活動援助後援会も一千万円を寄付した事業である。木谷隆日本大使夫妻、大司教も出席。国歌斉唱、来賓の祝辞、シャンパンを割り、記念の植樹もした。
 お昼を加藤神父のエマヌエル・ホームでセビッチェ(酢漬けの魚料理)やチリモイア(果物)などを頂いてから郊外のサン・マルチンシート学園へ。ここの建物にもやはりシスターたちの要請に基づいて海外邦人宣教者活動援助後援会の資金援助が入っている。ここのシスターたちは、子供たちに時間に遅れないこと、正直であること、ゴミを掃除することの尊さなどを教える、という。すると子供たちがスラムの家に帰って、それらのことを親に言うのだそうだ。子供の教育は親の教育に繋がる、というのである。
 帰り道、スラムを走る。豚を飼っていた養豚場の跡も見る。あまりにも不潔だというので、今はほとんど使われなくなっている場所だが、光景のすべてが泥色の区域。緑一本もない。異物、泥、埃、ぬかるみ、腐敗した残飯、塵、水平と垂直な線が一切ないでたらめに木をうちつけた豚小屋らしいものの廃屋、棄てられたままの布切れやビニールやボロの塊。ここの豚は皮膚病がひどくて食べると危険だという。しかしそのような豚がしばしば盗まれ、肉として売りに出されるから、豚は食べない方がいい、と誰かが言う。
 
九月十一日
 今日から日本財団から資金を出した先の調査が始まる。日本財団はペルーのフジモリ大統領の要請に基づいて、五十校の学校建築に十三億七千八百万円を出したが、このプロジェクトはもう完成した。子供の多い国境周辺の住民たちの人口調節の手術費用約二億五千万円は二〇〇〇年度で一応終わる予定である。これはすでに数人の子供のある夫婦にだけ適用され、男女どちらに対しても避妊の手術を行うものである。私は妊娠中絶は殺人だと思っているが、避妊には深い同情を寄せている。貧しい教育を受けていない夫婦の家庭で、オギノ式の避妊法だけを認めることがどんなに厳しいものか、教会が考えないのは残酷だ。女性だけで解決できる問題ではない。
 大統領は昨日アメリカから帰られたという。私たちの視察の行き先は保安上からまだ明かされていない。朝八時過ぎに空港に行き、そこで待つ。目の前に「プレシデンシア・デ・ラ・レプブリカ」と書いた大統領専用機が止まっているのだから、多分それに乗せて頂くのだろうと思うが、行き先の知れないペルー版「銀河飛行」である。
 この視察については、私は前回も私たちの気持ちを大統領府にお伝えした。私たちは民間の一団体なのだから、民間航空を利用して現地にまいります。そこからは現場だけご案内ください、と伝えたのである。するとそれは全く不可能だと言われた。大体民間航空機は飛んでいないか、路線があっても週に一便か二便という僻地にも学校は作られているので、とてもその日のうちに日帰りなどできない。さらに今回行くところは、もし個人で行くとすれば、地方の空港まで飛んで、そこから高速ボートで河を二、三時間、そこからさらにバスで二、三時間というような奥地だという。
 時間になると、ポロシャツ姿の中年の紳士が現れた。同行してくださる保健大臣のアレハンドロ・アギナガ氏で、閣僚になる前は医師だったという。昨日夜遅く大統領とアメリカから帰国して家に帰り着くと、明日、視察に行けと大統領から電話がかかって来たという。
 飛行機は一時間ほどでウカヤリ州のプパルパ着。そこで軍用ヘリに乗り換えた。ヘリの車止めとタラップは自分の機に積み込む。銃座は一つだけ。丸窓もドアも開いたまま。ウカヤリ川はアマゾン河の源流の一つだが、その川に沿って飛ぶこと三十分。ボートなら三時間かかるという。
 その日は、イパリア、プエルト・インカ(インカの港)、サンタ・ロザ・ディナマルカ(デンマークの聖なるバラ)、マシセアの四つの村をヘリで駆け巡る。名前は美しいが、何もない寒村ばかり。村で一番の建物が、財団のお金で整備された人口調節の手術が可能な保健所ということになる。暑さも厳しく草いきれの中を歩いて少し消耗する。
 夜は木谷大使の公邸で、お心尽くしの夕食会。ペルーの日本大使公邸人質事件の時、毎日ゲリラとの連絡役を引き受けたシプリアーニ司教とひさしぶりにお会いしてソファでしばらく話し込んだ。
 
九月十二日
 今日は視察の学校篇。
 緑色のセーターを召した感じのいい女性の文部次官がまず機内に到着される。次にフジモリ大統領がお着きになった。ひさびさにお目にかかることになる。今日もまた行き先は明示されていない。
 飛行機はクスコヘ向かった。マチュピチュの観光ではない。財団のプロジェクトで建てた学校がクスコ市内に二ヵ所ある。そのうちの一校は女子校だが、生徒たちが歓迎のあまり熱狂的に「チーノ! チーノ!」と大統領めがけておしかけるので恐ろしくなる。
「チーノ」というのは直訳すると「支那人」ということだが、フジモリ大統領の愛称であって、別に蔑称ではない。ペルー人には、東洋系の移民は皆「支那人」に見えたのだろう。
 学校を出て車に乗ると(大統領は戦闘服の士官の運転手の隣、私がその後、士官の後がアリトミ駐日大使)、人々が車に触りながら開いたままの車窓から、必死で手紙を渡したり、何か言いかけたりする。何を言っているのですか、と大使に伺うと、自分のところは建物も壊れそうな貧しい学校なので、ぜひ今度はうちの校舎を建て直してください、というつまり「直訴」である。それならたった今見学した学校が改築されたのはどうしてなのですか? と大統領に伺うと、答えはまことに簡単明瞭である。以前あの学校が一番古くて汚かったからだという。
 空港に着くと大統領が着かれるというのに門も開いていない。誰かが呼ぶと、男が一人のっそり出て来て門を開けた。お見送りもほんの十人ほど。大統領は徹底して権力的なことが嫌いな方だという。
 飛行機は再び飛び立って、今度はアンデス山中のプーノに向かった。空港が三千八百二十五メートルの高度だというから富士山頂より高い。しかし総じて高齢者は高度に強いことを知っているから私は大して動じなかった。
 ここでも日本からのお金で建てられた校舎は、空港から四十五キロのところにあるコリブリという学校である。そこはもうチチカカ湖に近いところだ。しかし私は車の中で猛烈な睡魔に襲われる。高山病の特徴に眠気という症状はなかったと思うのに、そして大統領を前に居眠りをするのは失礼だと恩いながら、どうしても低抗することができない。眠りながら、北極海で沈んだロシアの潜水艦「クルスク」号のことを夢に見た。犠牲者の乗組員たちは、息が苦しくなって死んだのではない。「ただ途方もなく眠くなってそのまま眼が覚めなかったのよ」と夢の中の私は誰かに解説している。
 眼を覚ますとまもなくチチカカ湖であった。軍が近辺の舗装工事をしている。自動車は大統領に気づいた人たちの歓声の中を走るようになった。アリトミ大使がワゴン型の車の後部から、選挙の宣伝用のテープを出しては大統領に渡す。大統領はそれを歓声を挙げる人々に手渡したり、車の窓から投げたりする。私もアリトミ大使を手伝って、テープを渡す役目をする。
 私は断っていたが、大統領は絶えず携帯用のボンベで酸素を吸われる。行く先々で大きな声を出して熱狂的な生徒たちに話をしなければならないからである。コリブリの生徒たちは働きながら学ぶのを目的としている。そのためのセンターに付属したパイロット的学校だという。
 帰りの専用機の中で、大統領は私たちと同行の日本人記者団の質問を受けてくださった。それから機内で昼御飯、もう午後四時である。高度で空腹感がない。
 空港からよれよれの服装のまま、日系人の方たちの講演会場へ。ただし通訳がスペイン語に直さないと、わからない方たちが多い。
 
九月十三日
 海上保安庁から同行中の筒井直樹さんが、ペルーの沿岸警備隊の視察に行かれるので、建設省の泊宏さんと私も同行。泊さんは、アマゾンでも徹底して河岸の護岸その他の構造物の状況を見ておられたから、今日は港湾の状態を見るのが目的。
 ペルーの海岸線は二千九百六十キロ。十四の港を持ち、沿岸警備艇は年に四万回出動する。最近の問題は漁船を使ったドラッグの輸送を摘発することである。コカはアンデスの山岳部と海岸の中間に産する。一昨日飛行機で最初に降りたプパルパから少し東に行けば、もうコカの栽培地帯になる。コカはインカ時代からある植物で植えるだけなら罪にならない。精製するのはコロンビアである。
 五年前まで麻薬はもっぱら空輸だった。ジャングルの中の小さな滑走路から飛行機を飛ばしてコロンビアヘ持って行く。次の段階はジャングルの中の川を使う方法だった。今は海で漁船も使っている。
 沿岸警備隊からすぐにアリトミ大使と、郊外のアルデア・サン・リカルド学校の開校式に出席。恵まれない境遇の子供たちが、校舎に隣接した幾つかの「おうち」のような寄宿舎に分かれて住みながら勉強する学校の建設費にも日本財団の資金が使われた。大統領の長女のケイコさんが開校式の主賓。私はスペイン語で挨拶することにした。下手くそはわかりきっているが、通訳がいらないだけ時間が省けていいだろう、とただそれだけの判断。
 神父が聖水で校舎を祝別したあと、ケイコさんと銘板の前で記念撮影。その後すぐ、アリトミ大使と大統領官邸に戻って訪問団全員と合流。ペルーの地元のお料理で昼食を頂いた。ジャガイモ料理がすばらしい。
 夕方ホテル帰着。私だけ九時過ぎにホテルを出て、KLMでオランダヘ向かう。少し肩の荷がおりて、少し疲れていた。
 
九月十四日
 無事、夕方のアムステルダムに到着。ブリュッセル行きの便の乗り口で秘書の堀川省子さんと無事会う。これから数日、貴重な休日。
 
九月十六日
 夜、フィレンツェに飛ぶ。昔からの友人の石川ヨシ子さんの絵の個展がフィレンツェのヴェッキオ宮殿で開かれるのに、ちょうど日程が合ったので出席するためである。石川ヨシ子さんはイタリア生まれ。花だけを描く画家で、私の本の表紙にもいくつかその作品を使わせて頂いている。花と言っても石川さんの描く花は、ただ甘くない。静かな節度ある魔性があるのに私は惹かれている。
 予約してあったホテルヘ行くと、水漏れがあって今晩だけ隣のホテルに行ってください、と言う。けっこうですよ、でも荷物を持ってまた引っ越しをするのは嫌なので、ずっとそちらにいます、と言った。ホテルなんかどこでもいい。お湯が出て、ベッドに虫がいなければすべて五つ星ホテル。
 
九月十七日
 日曜日。ドゥオモのミサに出ようとしたら、あと一時間たたないと入れないと言うので、行きずりの小さな教会でミサに与る。教会が観光名所になり、祈りの場所でなくなったことは、大きな問題だろう。祭壇から祭器を盗む泥棒が多いから、時間以外は入り口の大戸に鍵を掛けるのも仕方がないのだろうが、神は二十四時間、一人一人の人間の心に応えるはずなのに、これでは告解を聞いてもらう方法もない。教会はたやすく堕落するが、神が堕落することはないのだからどうでもいいのだが。
 
九月十八日
 秘書の省子さんが、ヨシ子さんが描いてくださった着物を持って来てくれたので、それを着て個展のオープニングに出席することにする。デザインは南アフリカの国花だというプロテアである。花の色は本来赤、ピンク、黄色などさまざまあるのだが、私の着物には、白と銀色を帯びた淡いピンクの花が使われている。我が家に咲いたのは花茎が三十センチ近くあり、それをお届けして描いて頂いたのである。花期は日本では五〜六月なのだが、南半球ではちょうど今ごろだろうと思うので、季節にはずれていない、と判断することにした。
 会場は荘重な「武器の間」で、市長さんほかイタリア側の「貴顕」が出席されて、シェークスピア劇に出て来るようなラッパ手も背後に並ぶ。壇上で私が坐ったイスは重くて高くて、本当は足が爪先しか地面につかなくてぶらぶらしているのをこっそり楽しんだ。
 終わって郊外のフレスコヴァルディ侯爵邸で昼食会。見事な藤の老木がある。葡萄酒通ではない私のような者でも魂のとろけそうないい白葡萄酒が出た。
 
九月十九日〜二十日
 列車でミラノに出て一泊してから、省子さんと一晩泊る予定でヴェネツィアにでかけた。私はこの町に住みたいとは思わないが、旅行者として来るのがほんとうに好きなのである。日本風に言うと路地奥にも詩がある。しかし「ヴェニスの商人」の土地だから、定住したら嫌になるだろう。もう職人の後継者がいないという、精巧な手製の、ミニチュアのデスクを買う。
 
九月二十一日
 夕方ヴェネツィア発。ミラノ、マルペンサ空港経由で帰国。成田からの道が混んでいて遅れたが、日本財団に寄って長い間働いてくださった西本克己氏の退職送別会の最後に辛うじて間に合う。誠実、正確、大番頭さんでいらした。
 
九月二十六日
 仕事に復帰。
 午前中、財団で海洋船舶部、ボランティア支援部などから募集の結果と、最終審査の説明を受ける。午後司法制度改革審議会。夜、海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会を私の家で行う。手製のサンドイッチだけのつましいメニュー。チャドから帰国中のシスター・入江が出席してくださる。
 
九月二十八日
 昼から財団へ「出社」。国際部案件説明。四時から日本財団の子財団である「日本顕彰会」の今年度の「日本財団賞」の選考委員会。社会で長年立派なことをされながら、叙勲、褒賞、表彰などの対象にならない方たちに百万円ずつを贈るもの。この選考会は毎年実に感動的だ。
 今年は海賊に船を乗っ取られ、ゴムボートで放りだされて衰弱の激しかった「アランドラ・レインボー号」の日本人の船長、機関長、フィリピン人の船員たちを救ってくれたタイの漁船を表彰する。同時にLPG船を反転させて子供を含む漂流中のフィリピン人のボートを救った日本船も表彰する。今は一般的に、漂流中のボートを見ても知らん顔をして行ってしまえ、という風潮があるのだそうだ。漂流者を装った海賊の危険を避けるためと、船の運航が救助のために半日でも遅れると、船会社がいい顔をしないからだという。私たちはそういう時流に逆らわねばならない。他に事故機が民家に落ちるのを防ぐために、脱出が遅れて殉職された自衛隊のパイロットお二人にも賞をお出しできたので少しほっとした。
 



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