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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 催眠香殺人事件  
コラム名: 地球の片隅の物語 第五十八話  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 1999/07  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   四月に、私は長いことトルコ、イスラエル、ヨルダンなどにいたので、日本の新聞をほとんど見なかった。最高のドラマだった都知事選だって結果を知っただけで、ちょっと残念に思っている。だからイギリスの女王さまのお住まいのバッキンガム宮殿の衛兵に、歴史始まって以来の珍しい衛兵が現れたニュースだって、もしかしたら日本でも出たのかもしれないのだが、その場合はどうぞ許して頂きたい。
 今まで私たちが見慣れていたバッキンガム宮殿の衛兵は、顔の長さの二倍はありそうな熊の毛皮の帽子を被っていた。そこに突然、一九九九年四月十二日、日本の駅長さんの帽子のような平凡な軍帽を被った兵士が任務に着いたのだから、写真を撮りにきていた全世界からのお上り観光客たちもびっくりしたろう。
 これはジャマイカ国防軍の第二大隊の所属の衛兵で、ジャマイカは自国の兵隊に、イギリスで特別な訓練を受けさせていたらしい。これが歴史始まって以来最初にジャマイカ人が英国女王を警備する記念すべき姿なのである。
 写真の報道はこれだけなのだが、こういう記事を契機に、私はいろいろなことを考えるのである。
 まず熊の毛皮の帽子のことなど、私はほとんどまともに意識したこともなかった。イギリスは乾燥していて夏でも涼しい所だからいいのかもしれないが、私だったらさぞかし頭が暑くて、かゆくなるだろう。あれを被って若い女の子にもてることだけ考えると悪くないような気もするが、現実的にはあまりありがたくない服装と思われる。
 しかし日本人に一番わからないのは、ヨーロッパに伝統的に残っている傭兵の思想である。自国の兵だと、クーデターの時に逃げてしまうからである。バッキンガム宮殿もこの習慣に従っているだけのことだろうし、ヴァチカンが、今でも槍を持ったスイス・ガードを採用しているのも、その習慣の名残であろうと思われる。
 しかし外国人兵士が女王を守るという視覚的現実が、日本の場合だったらすんなりと通るだろうか。まず傭兵そのものが、今の日本では全く道徳的に裁かれるだけである。「悪である戦争」に自国人を使わずに、他国人を金で雇うとは何事か、というわけだ。だからフランスの外人部隊が、国籍を超えて戦争のプロとして誇りを持っていることなど、全く認めようともしない。
 日本の場合、ちょうど留学中だからと言って、国賓の観閲式に気楽に外国人士官を並べることはまずできないだろう。写真の衛兵のボックスの後ろにE(2)Rと書いてあるが、その文字は現女王エリザベスのことを示しているので、私はミュージカルの舞台面のようだ、と感じてしまう。しかし、まじめ一方の日本人は決してそうは取らないだろう。どうして外国人に国の象徴を守らせるのか、そんなふうにジャマイカとの関係を見せつけて他のカリブ海諸国との関係はどうなるのか、とまあややこしいことになるだろう。
 たった一つの光景にも、日本人にはない精神構造を感じるのは、いい刺激になる。
  
 どこにでもありそうな馬鹿息子の話だが、それだけに誰でも身につまされる事件が新聞に紹介されていた。一九九八年の二月十二日、一つの殺人事件がシシガポールで起きた。
 ソムラタ・セータン(二十五歳)はタイ人の母、モリー・セートゥアングと母一人子一人で暮らして来た。母子は一九七〇年代にシンガポールに来たのだが、その時、ソムラタはまだ三歳であった。母子家庭で息子を育てることになった厳しい暮らしの背後には、どんな事情があってのことかわからないが、ソムラタの父親は、この母子のドラマには登場してこない。
 モリーはシンガポールのレストランで歌手をしながら生計を立てた。日本で言うとお盆の頃の「お施餓鬼供養」のような町のお祭りの催しでも歌っていたという。当然のことだが、モリーは一人息子のソムラタを溺愛していた。ソムラタは母の期待を担って、シンガポール・ポリテクニック(大学)を受験して失敗した。すると息子に甘い母は、彼をオーストラリアに送ったが、そこでもソムラタは、どこの大学にも入ることはできなかった。
 ソムラタが二十歳になった時、母のモリーはクウェック・スウィー・キアという十歳年下の男と結婚した。モリーと結婚するまで、クウェックは酒と博打で金を湯水のように使う男だった、と友人は証言している。十歳年上の女と巡り合って、彼は真面目になったように見える。結婚後夫婦は、有名なニュートン・サーカスのホーカー・センターと呼ばれる食堂街で麺屋をやり、併せてタイ人やフィリピン人のバンドを斡旋する業者のようなこともしてかなりの金を溜めた。
 一方息子の方は打ち込める定職もなかった。その代わり一九九七年の六月に、彼は電話で香港に住む四十一歳の女性交換手と知り合い、夢中になった。この女性はソムラタになんとかして香港に来て、としつこく言い続けていたらしい。しかし無職のソムラタには香港へ行く金などあるわけもなかった。既に母のモリーには、一九九七年の八月に日本円にして八十五万円もの借金のしりぬぐいをさせている。今さら母親が金を出すはずはないのである。
 そこで考え出したのが、自分の家に強盗に入るという筋書きであった。ソムラタは殺し屋ならぬ「盗み屋」を雇うことを考えたのである。
 ソムラタは同じタイ人で、ポアンという男に眼をつけた。期限をオーバーしてシンガポールに残っている不法滞在者である。タイにはおもしろいお香があるらしい。それを焚くと、深い眠りに陥るというものである。ソムラタはこの催眠香を焚いて母親と義理の父親を眠らせてしまえば、金や宝石は楽に盗めるだろう、とポアンに持ちかけたのである。
 一九九八年二月十二日の深夜近く、ソムラタはポアンともう一人のタイ人を、自分の家のあるマンションまで送った。母と義理の父が帰宅していることを知った上でのことである。
 催眠香を焚くのに少し手間取ったが、ソムラタは二人を残して引き揚げ、近くの喫茶店で二人を待っていた。このあたりも、まことに不用心な犯罪の方法である。
 十五分後に二人はやって来て、思いがけない報告をした。金品を漁っていると、母親夫婦が気づいて起きてきて、二人を捕まえそうになったので、止むなく殺して来た、と言ったのである。
 ソムラタはすぐ二人を乗せて海岸地帯のチャンギに行き、凶行に使った血のついたナイフの入った鞄を(はっきりとは書いてないが、多分海の中に)捨てさせた。
 こうした工作の間、ソムラタは両親の使っていたベンツに乗っていたが、それは高級車なら、何かあった時にも警察がそれほど検問をしないだろう、という計算からであった。奪って来た金は日本円にして約四十五万円ほどだったが、ソムラタが二十八万円を取り、ポアンが七万円、もう一人のタイ人が十万円を受け取った。
 ソムラタはそれから自分の家に帰った。
 母親は胸や首を何カ所も刺されており、義理の父は心臓を刺された上、首や胃のあたりにも掠り傷があった。ソムラタは二人の遺体があるのを承知で荷物を作り、シャワーを浴び、家を出て空港へ行く前には行きがけの駄賃に母親の金の腕輪と二個の指輪、それにいくらかの金を奪って行った。
 彼はそこから香港に飛び、女友達に会った後、六、七ヵ月をタイで過ごした。二人の遺体は死後七日ほど経って、近所の人から悪臭がするというので通報を受けた警察によって発見された。もちろんソムラタは葬式にも出席しなかった。
 ソムラタがシンガポールヘ戻ったのはその年の九月だが、それは親戚の人が、母親の死亡診断書があれば、彼は遺産を相続できるだろう、と言ってやったからであった。
 ソムラタの弁護士によると、彼は母を愛していたし、義理の父ともうまく行っていた。香港の女友達とも真面目な関係で、結婚しようと考えていたが、その前に捕まってしまったというのである。ソムラタが受けた判決は十四年の禁固刑であった。
  
「穴に住む男」という見出しをつけられた記事には、一人の男が小さな一人用の墓穴から首を出している写真が載っている。この墓穴というのは地面を掘ったものではなく、地上に煉瓦を積み、上からセメントを塗った大きめの犬小屋のようなもので、タイのカンチャナブリにあるテワ・サンガラム寺院の裏庭に、幾つも並んで建てられている、火葬前の遺体の仮置場なのである。そしてこの男、バイロー・サントーンという三十五歳のタイ人は、今はどこにも行く所がなく、もう一月以上もこの遺体置場を家として暮していた。
 ここでは確かに彼はその中で横たわり、座り、雨と太陽から身を守ることはできた。しかし蚊の猛威を防ぐことはできなかった。
 彼はバンコック生まれ。幼い時のことは語りたがらないが、一九九二年から一九九六年の間は、バンコックのクロン・プラパ地区のパン工場で働いていたことはあるらしい。
 タイの経済状態が悪くなって解雇された後、彼と妻はカンチャナブリに移った。サトウキビの採り入れ時に働く季節労働者になって生計を立てるつもりだったのである。
 しかしこうした計画もうまく行かなかった。彼の妻は観光地のプーケットで食堂のウェイトレスとして働くために、子供を連れて彼と別れて行ってしまった。その後でパイローは或る寺に住み込みで働くことができるようになったのだが、肝心の彼の健康状態がよくなかったので、僧院からも出なければならなくなった。
 そこで行く所もない彼は、こうして遺体の入っていない仮置場に住み着くことになったのだが、それでも僧侶たちは、ちょっとした仕事を彼にさせて小遣い稼ぎをやらせてくれてはいるらしい。病気がちということは、結核があるのかもしれないし、そんなに蚊に食われればマラリアやデング熱の危険もあるだろう。しかし男の表情は不思議に明るい。髪も短く刈られていて、乞食という感じではないのは、タイ人たちが持ち合わせている慈悲心のおかげかもしれない。
 同じタイでは最近エイズが爆発的に増えているという。アジアでは現在七百二十万人がエイズの感染者である。特筆すべきは、去年だけで百四十万人の新しいエイズ患者が増えたことである。そしてそのうちの七十万人が二十五歳以下の若者である。
 経済的な危機が、多くの若い娘たちを、家族を食べさせるための売春産業に追いやった。最近の感染者の特徴は、麻薬の常習者でもなく、母から子への感染でもなく、性的な交渉によってうつるものが多いという。
 アジアの中でもエイズが多いのは、インド、カンボジア、タイ、ミャンマーである。インドでは患者数が五百万人に近づき、タイは百万を超えたところ、ミャンマーは四十四万人と見られている。タイという国はそれでも、大人と子供を含めて二十五万人がエイズで死んだという災害に対して、もっとも効果的な対処をして来た国と見なされている。
 国連の統計によると、世界のエイズによる孤児の10パーセントはアジアにいるが、これから先十年の間に、その比率は33パーセントに上るだろう、と予測されている。
 この記事を読んでいて私がショックを受けたのは一九七〇年代の初めに私がインドでハンセン病の小説の取材をしている時、当時のインドの推定患者数が五百万人だったことを思い出したからである。インドの人口は当時六億人だったから、百二十人に一人がハンセン病だったわけである。私が現在働いている日本財団で、笹川良一前会長がハンセン病をなくすことを悲願として働かれたので、現在全世界のハンセン病の薬はWHOを通してすべて日本財団の費用で賄われるようになった。その結果二〇〇〇年か二〇〇一年にはハンセン病は終息宣言をできるまでになったのである。
 しかし一つの災害が収まると火事は別の火の手を上げている。インドのエイズは一時のハンセン病と全く同じ数である。こういう皮肉で悲惨な事実に対して、私は何と言うべきかを知らない。
 



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