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ボリビアのサンタ・クルス市にあるサン・ファン・デ・ディオス病院はいわゆる国立病院である。 もう数年前に、この病院で働く青年海外協力隊員から、私が二十年近くかかわることになった海外邦人宣教者活動援助後援会に、手術室の空調設備の申請があった時、私たちは迷ったのであった。このNGOがお金を出す相手は、途上国に住みついて働いている日本人の神父と修道女の事業ということになっている。しかし、けっきょく私たちは、発電機をも含めた施設の改善費を出したのである。 国立病院だが、名前は日本語に記すと「神の聖ヨハネ病院」である。数年後に私はその病院を訪ね、協力隊員とも、そこに住み込んでいるイタリア人の修道女たちとも会った。私たちが出したお金はきちんと使われていた。シスターは腰につけた鍵束をじゃらじゃらと鳴らしながら、小屋のような付属の部屋を開け、そこにある非常用発電機も見せてくれた。それまで病院には停電した時、サポートする発電機がなかったのである。私の帰国後二カ月ほど経って、サンタ・クルス市に大停電があった時、この病院にだけは電気がともっていて評判になりました、と日本人の神父は知らせてくれた。この話を聞いた私の知人は、 「よく発電機が動きましたね。そういう時、素人に任せておくと、えてして動かないものなんですがね」と口の悪い言い方でイタリア人のシスターたちをほめた。 今度再びボリビアを訪れることになると、このシスターたちはほしい薬のリストを送りつけて来た。私は薬の名前を見てもわからないので、同行の厚生省のドクターに任せ、日本財団がそれを安く買う手配をし、荷造りもしてくれた。百五十万円ほどになった費用は海外邦人宣教者活動援助後援会が支払うことになっている。しかし四十五個近くになった荷物をそこまで運んでくれたのは、同行者たちであった。私は大いに怠けていたのである。 シスターたちは国立病院の中に住みついて、この古い病院を掃除し磨くことでどうやら人間の病院らしくしていた。シスターたちは薬を届けに行った私たちを、手製のラザーニャ、バナナ、とっておきのマスカットのお酒、やきたてのケーキでお昼ご飯を用意して待っていてくれた。 食後に、シスターと神父はイタリア語で「ママ」の歌を合唱した。ママはここにいなくても、遠いイタリアか天国に在って娘たちの働きを見守っているのだ、と私には思えた。 青年海外協力隊は、「もうあんな苦労は後輩にさせたくない」と言って、他の所は知らないが、少なくともこの病院からは撤退した、という。しかしイタリア人たちの考えは多分少し違うのだ。 「あんな所」で働くから神は喜んで下さるのだろうし、「あんな所」にも楽しい人が住んでいるのよ、と思っているのだろう。だから彼女たちは悲愴な顔をすることもないのである。
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