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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 裏表?使い分けてこそ理性的な愛  
コラム名: 自分の顔相手の顔 76  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1997/08/25  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   時々、私は愛想がいい人だと言われることがあって、おや、と思うことがある。
 私は人中に出るのを嫌って作家になった。生まれつきのひどい近眼だったから、ほとんど人の顔を覚えられなくて、会う人が誰だかわからなくて失礼ばかりする。小説家になれば、家にこもっていて、変人奇人と思われてもどうやら許されると思ったからである。
 日本財団というところに勤めるようになった時、一番恐れたのは人に会うことだった。私の眼は数年前に白内障の手術を受けてから、生まれつき強度の近視のおかげで、急によく見えるようにはなったのだが、五十年近くも見えない生活を続けていたので、今でも人の顔を覚える機能だけは全く残っていない。それに、一年に一度も、パーティーと名のつくところへも、「文壇人種」の屯(たむろ)するクラブにも行ったことのない生活を続けていた私が、そういう対人関係の生活に耐えられるかどうかも心配だった。
 しかし不思議なもので、義務と思えば代議士さんのように一日中たくさんの人に会い続けることもどうやらできるようになった。しかし今でも瞬間的に相手がどなただかわからなかったり、乱視のおかげで名刺の名前を読み違えるような失礼をすることがあって、それはかなり辛い。
 そういう私がパーティーでにこにこしているのは、聖書でおもしろいことを知ったからである。聖書の中では、「愛」とはいかなるものかを明瞭に規定しているが、その中で「礼を失せず」という明確な定義がある。
 誰でも日によっては不機嫌な顔しかできないような気分の時がある。しかしそういう時でも、相手に対して、そのまま不機嫌を顔に出すのは何より「愛」に反する行為だというのである。つまり甘えるな、ということだ。
 日本の教育では、裏表があるのはいけないことになっている。だから先生に対するのと、友だちに対するのと、言葉遣いが違うのは、お宅の息子に裏表がある証拠だと言われたこともあった。私の体験である。しかし私は断じてそんな単純な思想を受け入れなかった。言葉にはさまざまな段階があって、それを豊かに使いこなすことこそ、文化であり、芸術である、と思っていたからであった。
 キリスト教は、さらにその根拠をはっきりと定義づける。人間は断じて「裏表」を持つべきだ、と命ずる。それが人間の理性的な愛の根拠と表現であって、あるがまま、したい放題などというのはわがままだと判断する。
 私が、一人か、ごく限られた人たちだけと付き合って、半分隠れて住むのを好む、という姿勢は今でも変わらない。しかし公的な仕事を引き受けた以上、オフィスの仕事に携わる間だけは、そういう性癖にストップをかけるのが義務なのである。
 意識して裏表を使いわけられるのが大人というものだろう。今の教育は素朴を装って、実は精神がひ弱くて単純な子供しか作らない。
 



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