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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 天気予報のおせっかい  
コラム名: 昼寝するお化け 第193回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 1999/12/17  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   このごろの子供の自殺の背後には必ずいじめがつきまとうのは、実に悲しい。昔からいじめは常にあったし、今後も人間が生きている限り続くだろう。日本は人種問題が比較的深刻ではないから幸運なのだが、ヨーロッパの国々や、部族社会の対立が延々として残っている土地の話を聞くと、この怨恨や対立の感情が消える日があるのだろうか、と暗澹とする。
 昔の父親は、「黙ってぶたれているな。やられたらやり返して来い」と言った。暴力は何でもいけない、とは言わなかった。しかしそれでもお互いに節度は心得ていた。そして殴り合いの喧嘩がきっかけで仲良くなったという人間関係もよく見られたものであった。
 子供が自殺すると、学校はいじめを知っていたのに、それを止めなかった。だから責任は学校にある、というような言い方をする親がいる。しかしほんとうに子供のことを知っているのは、同居している親であるべきだろう。先生は他人だが、親は肉親だ。いっしょにご飯を食べていれば、何となく元気がないとか、言葉が途絶えがちだとか、急に友達のことに触れなくなったとか、不自然なお金を欲しがるようになったとか、何かのサインが見えるものだ。
 しかし私は総てが親の責任だと言っているわけでもない。個人としての子供の心理の奥底にあるものが、親にさえわからないことは必ずあるだろう。その場合は、親でさえわからないものが、どうして大勢の子供を扱う学校にわかるか、と思うのである。決して学校や担任の先生を信用してはいけない。問題を解決してやる第一の責任を有するのは、親なのである。
 不登校の生徒のための寄宿学校として建てられた岡山の吉備高原希望学校という所を先日訪ねて来た。私は昔から何人も不登校の生徒を見て来たから、彼らが感性の豊かな知能の高い子たちであることを知っている。むしろ皮肉を言えば、父親が教養があって母親が優しく、家庭の居心地が良過ぎるから学校へ行きたくないのだ、と思っている。
 我が家は親たちが作家で、家の中が理想的ではなかったから、私の息子など、「登校拒否」ではなく「下校拒否」だった。朝校門が開くのを前で待っていて、夕方は追い出されるまで遊んでいる。今は「登校拒否」というと叱られる。「不登校」と言わなければならないのだそうだ。呼び方をどんどん替えて行くことが人権だと思っているのもほんとうにおかしなことである。問題を見据えなければ、問題は解決しない。人生を直視すれば、どんなことも誰にもありえて当然なのである。
 学校へ行くのがいやになったら別に無理して行かせなくていいのだ。金を持って来い、と脅すような子のいる学校はさっさと捨てるのも一つの手だ。もっとも転校の理由として、いじめをした相手の固有名詞と理由を明記して、学校と教育委員会に届ける制度を作ればいい。そうして逃げ道を作っておいてやれば、子供は自殺しなくて済むかもしれない。
 その吉備高原の寄宿学校では、生徒たちがほんとうに楽しそうだった。小学生でも、私と人生観を闊達に語れる子がたくさんいる。私がわざと「皆さんのうちが幸せ過ぎたんじゃないの?」と言うと「そんなことはない。親が離婚した」とちゃんと切り返す子もいる。私が、親の離婚くらいでイバルな。離婚した親を持つなんてことは(私もそうだけれど)他人にはない体験ができたんだから得なんだぞ、と答えると、この無鉄砲な返事を受け止める子供の笑顔に大人気さえ見えるのである。人生の矛盾を早くもまともに受け止めている成熟した表情である。
 自己紹介をする時に、何と言っていいかわからなくて困っている小さな子がいると、上級生が小声で教えてやっている。兄弟姉妹というものは、ああして困った時には、自然に(時にはしかたなく)助け合って育って来たのである。その空気もちゃんと育まれている。
  
教育の基本方針を決めるのは親である
 いじめは世界中どこにでもある、という前提の下に教育をしないと強さがでない。というと、現代の日本では、すぐ叩かれる。「あなたはいじめを認めるのですね」というわけだ。認めるのではないが、ある、という事実はどうにもならない。人間にはいじめたいという破壊的な潜在意識と、親切にしたいという与える喜びが共存する。望ましからざる要素をできるだけ枯らして、優しさの部分を伸ばし引き出すのが教育だ。政治も経済も教育も、こうした人間の心の矛盾から出発しないと、強靱なものになりえない。
 とにかく誰か一人に、事件の全責任を負わすという風潮はどうも不自然である。殺人とか、交通事故とかいうものの中には、九十九パーセントまで、「犯した人」の責任というものももちろんあるが、多くの事件の責任は、まず当人、親から始まって、周囲のたくさんの人たちが少しずつ原因を受け持つべきものだろうと思う。
 自分の責任、ということがこのごろほとんど考えられていない。毎朝テレビを見ていて、一番不思議なのは、天気予報の時である。今日は寒くなりますからセーター一枚は余計にお持ちください、雨になりますから傘をお忘れなく、などとアナウンサーが余計なことを言う。
 昔、厳寒の頃の駅のホームで、ランニング一枚だったかとにかく見ただけで震えあがりそうな服装の小学生を見かけたことがある。親が服を買ってやれないのではないだろう。親は一つの人生観から、子供を薄着で育てているのである。
 私はひ弱な子供で、寒い冬には母親が朝ひんやりとする木綿のシャツを着せないために、前夜からシャツを炬燵にいれて温めておいてくれた。時には熱いほどのシャツを着る時の幸福な肌の記憶も私を育てた。しかしわざとシャツを着せないで育てている親の気持ちも深く尊敬している。他の人が凍死してもこの子だけは生き延びられるかもしれないのだ。
 それぞれの家庭は、それぞれの思想と選択によって子供を育てればいい。私の家では、息子は生来のヤバン型、孫は六歳から武術を習っていた。だからいじめに会わなかったが、その代わり学校の成績の方はどうなのだろう。
 しかしそうした教育の基本方針は、すべて親が決めるのが原則だ。決して学校ではない。
 今日セーターを一枚余計にもって行くかどうか考えるのは、個人だ。アナウンサーは客観的な気温の予測だけを示せばいい。世界中でセーターや傘にまで言及するおせっかいな天気予報は見たことがない。
 今に「アナウンサーがセーターを持って行けと言わなかったから風邪を引いて、その結果死んだ。補償すべきだ」というような漫画が描かれたり、裁判にまで持ち込まれる時代になりますゾ。
 



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