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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 簡素な教育?普段あるものがなくなれば…  
コラム名: 自分の顔相手の顔 149  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/06/08  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   東京の銀座でネオンを消した夜があった、という。私はその目的が何であったか、正確に知らない。しかし、取り上げると失われたものが見えて来る、という原理が、その時しみじみと理解されたことだろう。
 ネオンのない夜には、ネオンの華やかさの意味が実によく感じられただろうと思う。ついでに東京でも星空が見えるということに感動した人もいたのかもしれない。
 母を失った子供は、母とはどんなに大きくて貴重な存在だったかを知る。神戸の連続殺人を犯した酒鬼薔薇少年は、母に向かって無関心や憎悪を見せているというが、それは彼が母を失ったことがないからだ。
 昔から、宗教的な理由で食事を抜くという習慣はごく普通のものだった。カトリックでは、クリスマス・イヴは半断食の日だった。パーティーをして夜通し飲み食いする日ではなく、むしろ軽い苦行をする日であった。
 今でもイスラム教徒は、決められた断食月には、二十八日間、日の出から日の入りまで食事をしない。その時、初めて空腹や、食事を取れることのありがたさを知るだろう。
 簡単なことだ。家庭でも一日ずつ、普段あるものがないという体験をさせればいいのだ。それくらいの単純で強烈な教育があってもいい。家を失ったと仮定して外で寝る日、電気を一切使わない日、テレビを消す日、電話をかけない日、エレベーターを使わない日、食べない日、などいくらでもテーマは考えられる。そうすれば、今私たちが当然と思っている生活の形態がどんなに脆い基盤や保証の上に成り立っているかもよくわかるだろう。
 テレビ会社も、月に一日、休電波デーを作るといい。安全や経済的な面で必要なニュースは、すべてラジオで流せばいいのだから。とは言ってみても、広告収入が減るという理由だけでも実現しないだろうが、国民の意識はテレビのない日を設けることによってずいぶん変わるだろう、と思う。今はテレビ中毒みたいな人が至る所にいて、テレビが鳴っていないと不安に陥るという人もさして珍しくない。
 しかしたまにテレビがなければ、人間はずいぶん思索的になるだろう。本も読むだろうし、家族の会話も増えるのは間違いない。デパートやレストランの売上もかなり増加するだろう、と思う。
 日本人の不幸は、自分が持っているものの価値をほとんど感じていないところにある。私が幸運にもそうならないのは、毎年のように途上国へでかけているからかもしれない。私は地面の上でなくふとんに寝られる幸福を思い、飲めるほど清潔な水をいくらでも使えることの幸せに酔う。毎日飽食できるということは、昔なら支配者階級のみの特権だった。
 簡単な教育でいて、これは強烈な刺激だ。こういうことをすると、欲望も健全に働いて来て、もしかすると景気回復の引き金になるかもしれない。
 



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