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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: あずさ82号?この人達、まだ大丈夫  
コラム名: 自分の顔相手の顔 214  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/02/15  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   一月二十四日の夕方、私は長野県松本市での講演を終えて臨時特別急行あずさ82号という列車に乗って東京へ向かった。二日後には、私はベラルーシに発たねばならない。いつもは景色を見たり、眠りこけている私も、その日だけはグリーン車の車内で携帯用のワープロを取り出して原稿を書き始めた。
 私は前の座席の背についているテーブルを倒し、その上にワープロを置いてみたのだが、どうも距離が適切でない。私は再びテーブルを畳んで膝の上にワープロを置いて書くことにした。ところがなぜか引き出す時は何でもなかったテーブルが、収めようとするとうまく椅子の背に入らなかった。無理に入れると、止め金が弱くて落ちて来てしまう。幸いあたりは空いていたので、私は隣の席に移り、しばらくして通り掛かった車掌さんに「直してみていただけますか?」と頼んだ。
 しかしなれた男手に掛かってもテーブルは言うことをきかなかった。いずれ直します、ということになって、私は当然列車が新宿に着いてから修理が行われるのだろう、とばかり思って、珍しい吹雪の景色を眺めていた。
 ところが驚いたことに、数分後に着いた甲府で二人の作業服の男性が乗り込んで来た。手擦れで皮の色がなくなるほど使いこんだ工具入れを持っている。その人たちは隣席に移った私にもちょっと会釈し、それからテーブルを直し始めた。私はその素早い反応を、驚きと幸福で見つめていた。二人は甲府に停車中には仕事を終えられないと思ったらしく「石和(いさわ)まで行って」などと話している。
 結局、故障の原因はアームが曲がってしまっているためらしく、完全な修理は新宿に着いてからということになったが、とにかく無事にテーブルを収めた二人は、帰る時もいい笑顔を見せて私に会釈して行った。いいお母さんに育てられ、いい奥さんがおられるのかな、と思うような笑顔だった。
 成人式の日本人は絶望的でも、こういう日本人に会うと、日本はまだ大丈夫だと思う。いち早く故障を通報する車掌さん。通報を受けると素早く修理のルートに乗せる駅の対応。乗り込んで来る技術者のどんな小さな故障もなおざりにしないという自然で折り目正しい態度。恐らく世界中でこれほど誠実で優秀な人間を抱えた国家はないだろう。
 車掌さんから改めて説明があった時、私は小さな声で言った。
 「今、お友達から頂いて来たチョコレートをせめてあのお二方に差し上げたいと思いますけど、もうお降りになりました?」
 「はい、石和で降りました」
 何もかも自然でさりげなく、誠実だった。日本とは、まだこういういい国なのだ。
 ほめたついでにお願いする、JRすべての駅に老人と身障者のためのエレベーターかエスカレーターを一刻も早く整備して頂きたい。松本にはそれがなかった。設備も最高の誠実と愛なのである。
 



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