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一九九五年、四月十九日、アメリカのオクラホマ・シティにあるアルフレッド・P・ムラー・フェデラル・ビルディングが爆破され、百六十八人が死に、五百人以上が傷を負った。 犯人のティモシィ・マクヴェイは死刑の判決を受け、この五月十六日に、インディアナ州のテル・オートにある連邦刑務所で刑の執行が行われることになっている。その時、二百五十人の生存者と、(恐らく死者の)家族たちは、この処刑の様子を限定された場所の中だけで見られるテレビカメラによって、見ることができるように、弁護士のカーレン・ハウィックを通じて政府の刑務所に嘆願書を提出した。 連邦刑務所では、死刑囚の死刑執行に対しては八人分の「証人席」しかない、という。 いつも同じ言い訳をしているのだが、私が読む英字新聞は、新聞ではなく、旧聞といいたいほど古くなっているので、これは二月半ばの話である。この段階ではマクヴェイは恩赦を願い出るだろうと言われているし、連邦の規則では、処刑の部屋へのカメラの持ち込みは禁止されている。 しかし連邦政府としての死刑執行は、一九六三年以来行われていない。そして最近の州の法律では、被害者の家族だけは刑の執行を直接見る権利があるようになったので、カメラを通してであろうと、より緩やかな配慮がなされるだろう、と弁護士は言っている。 何もかも日本とは違う。アメリカ型の正義というものがここには歴然とうたわれている。 死刑を執行される犯人が可哀想なのではないことは明らかなのだ。犯人によって殺された百六十八人こそ、可哀想なのだ。マクヴェイが百六十八軒の家庭の幸福を粉々に打ち砕かなければ、誰がマクヴェイを死刑にしたりするだろう、ということだろう。 しかしこの問題は、実に複雑な意味を持っている。家族を殺されていない私には、本当は何も言う資格がない。愛する者を失われた遺族の復讐の念がどれほど凄まじいものか、私には理解することができるとは思えない。 犯人とはいえ、毒物の注射による刑死を見守ってそれで後、気分がさっぱりするものなのだろうか。私が遺族だったら、ただ「正義は貫かれました」というような凡庸な通知書一枚を受け取って、ことを済ます方を取るだろう、と思う。残りの人生を憎しみではなく、やはり別の感情で生きて行きたいからだ。
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