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ハワイ沖で沈没した「えひめ丸」の遺族たちが、船の引き上げを断念したことを、私は遺族の悲しみの超克の結果として尊敬の思いで受け取った。 死者を家に連れ帰りたい、というのは、生きている者の感情としてはよくわかる。しかし私たちは死者を永遠にわが家においておくわけには行かない。墓という死者の住まいを用意するのが普通である。それが果していいことかどうかは証明のしようがないだろうけれど、昔から今まで、どんな土地でも、それぞれの形で、死者には生き残った人とは別の住まいが用意されて来た。
海で働こうと決意した若者たちにとって、海ほどふさわしい墓所はない。沈んだ「えひめ丸」は墓標に過ぎない。海はどこにも通じている。死者たちが生まれ育ち、未来に夢を抱き、懐かしい友達と遊んだ祖国の岸辺も洗っている。だから彼らの魂は、間違いなく海によって帰って来たのだ、と私は思う。
植村直己さんはついにマッキンレーから帰らなかった。山登りなどと無縁な私だったが、真冬のマッキンレーを空から見た時には激しく胸を打たれた。
それは地球上でもっとも雄大で麗しい廟(モウソリーエム)であろうと思われた。氷河が輝ける道のように誘い、人を寄せつけない山肌は朝日に光っていた。王や皇帝と呼ばれたような為政者で、生前から自分の墓所を作ることに執念を持ち続けた人はいくらでもいるが、誰一人あれほどの奥(おく)つ城(き)に眠っている人はいない。ヘロデ大王はヘロディウムと呼ばれる人工の山を自分の墓所とした、と言われている。ムガル帝国のシャー・ジャハーン王は、王妃ムムターズ・マハルを埋葬するために、月の夜には涙の雫(しずく)のように光る大理石の霊廟タジマハルを建てた。どちらも類稀(たぐいまれ)な構造物だが、それでも植村直己氏のマッキンレーの壮麗さには及ばない。
海はまた永遠の生を思わせるところだ。月の夜には海面に、天空まで続くかと思われる光の道が出来る。それを受け止めるのは、広大な時空を歌う星である。もっともこれは穏やかな海の光景ではあるけれども。
海は、動きを止めることがない壮麗で勇大な墓所である。
この事故を乗り越えて、若い人々が人間の生を支える海で働いてくれることを望んでいる。海は、分厚い人生も、詩も、哲学も、ロマンも、まだ濃厚に見えている場所なのだ。
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