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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 輝く人?晩年になるほど美貌と気品と  
コラム名: 自分の顔相手の顔 252  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/07/06  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   裏千家家元夫人、千登三子さんが亡くなられた後、その追悼録が「浄光の譜」として送られて来た。
 私が登三子さんと親しくなったのは、人生の後半である。登三子さんは私よりちょうど一年くらい年長であった。登三子さんは雙葉学園、私は聖心、と同じようなカトリック系の学校で学んだにもかかわらず、全くお会いする機会はなかった。それというのも、私はひねくれた大学生で、勉強はほとんどせずに小説ばかり書いていたし、登三子さんは美人で賢いという評判の高いお嬢さんで、まもなく裏千家の家元夫人になられたのだから、茶道とも全く無縁の生活をしていた私には、登三子さんの傍へ近づく機会もなかったのである。
 履歴を見ると、結婚は私の方が一年早い。ご長男である政之さんが生まれられたのも一年遅い。しかし私たちは同じような時代を生きて来たのである。
 この追悼記を手にした時、私が一番期待したのは、若い時の、ご結婚当時の登三子さんの面影を見られるだろう、ということだった。私たちは随分いろいろなことを話し合ったけれど、お互いの若い時の写真を見せ合うなどということは思いついたこともなかったのである。私たちは自分のことはもとより、人の噂話さえほとんどした記憶がない。私たちは、私たちなりの自然な言葉で、私たちが感動して来た「人生」を語ることが多かった。
 ご夫妻が結婚されたのは一九五五年一月三十日である。うちかけに角隠し、お家元は紋付き袴である。仲人はこれも若き日の作家の吉川英治夫妻であった。
 この時代の登三子さんは、お仲人の吉川夫人が細面でいられるのと比べると、ふっくらとした頬をした丸顔であった。次男の政和さんが生まれられた頃の写真は洋服で、靴はヒールが高くて細い流行のものであった。
 しかし私が驚いたのは、この美貌や気品や育ちのよさや教養やすべての面を既に備えた若い日と比べてみても、登三子さんの美しさは、晩年になるほど輝いているのである。
 亡くなった時、登三子さんは六十八歳であった。もう若いとは言えない年齢である。普通女性は、四十になり五十を過ぎ六十を越すと、美貌や色気とは無縁なものになりがちである。
 しかし登三子さんは逆であった。私の好みもあるのだが、このご夫妻は、歳を取られてからの方が美しい。ご主人の千宗室氏はさりげなく次のように書いておられる。「登三子はエレガントというだけでは表現出来ぬ優雅さを全身に持っておりました。これも千家に嫁いで来てから何年も何年もかかって自己啓発したものと、私は昔からの写真をならべて見ながらそう思うのです」
 この文章を見つけたのは、登三子さんは晩年ほど美しかったことを私が発見した直後のことである。その秘密を宗室氏はこのようなさり気ない表現で明かしておられたのである。
 



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