|
自然の死に対して、死と抵抗しようという動きが一方にある。生命科学の発達は、あらゆる場で、人間を病気と死から、健康と不老・不死の方向に向かわせる。軽薄にも人間は、ほんの一瞬、死を前にすると、不老と不死こそ、究極の幸福と思いそうになる。 一月五日付けの毎日新聞で教えられたのは、細胞の核にある染色体の両端にテロメアという部分があって、これが細胞分裂の度に短くなり、一定の短さになると、それが細胞の寿命の尽きたことを示す、ということである。 この寿命の物差しであるテロメアを、クローンの技術の開発の途中で、テロメラーゼという酵素を使って伸ばす可能性が出てきた。 「人間の血管内皮細胞は体内から取り出すと60〜70回分裂して寿命を終える。ところが、テロメラーゼ遺伝子を入れた細胞は200回を超えて分裂を続けた」 というから、このテロメラーゼが老化防止の強力な武器になると考えられている。 「『不死』はともかく、『不老』は夢でなくなるかもしれない」 と記事は私に教えてくれる。 しかし不死も不老も私には怖い。個人としての不死は、いかなる重大な刑罰よりもひどいだろうと思う。死は一つの優しい解放であり、許しであり、休息なのに、それが永遠に与えられないということになったら、それは刑罰の最たるものだ。 もし人が死ななくなったら、地球上には地獄が出現するだろう。増えるだけ増え、しかもまだ増え続ける人間を始末できなくなると、食料は不足し、水は汚染され、人間の居住する面積は極度に少なくなり……人間はお互いを殺し合うことで数のバランスを取る他はなくなる。考えたくもない場面である。 死は残されていて、不老だけが可能になるならいいような気がするが、それも困る。もし不老によって生きていることが幸福と感じている人ばかりになったら、その人は決して死を容認しないだろう。死は今よりもっと残酷にその人に襲いかかる。あたかもライオンがシマウマやカモシカを襲い、生きている餌食の肉を噛み割き、はらわたを引きずり出すような生々しい痛ましさになってしまう。死を受容するには、年老いることや病み惚けることが必要なのだ。生きることがかったるくなり、生きていて も半分眠っているような状態になる。その過程が大切だ。「幽明界を異にする」というが、幽明界のぼやける境地が死のためにはいいのである。二十一世紀は、人間が己を過信して、神の創造と同じ地点にまで這い上ろうとして、激しく罰される場面があるような気がする。そうなる前に死んでいる私の世代は幸福なのだが、私の子供や孫の時代に地獄を見せたくはないと思う。人間は強欲になるとろくなことがない。生命においても同じである。
|
|
|
|