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一九九八年三月十日 夕方五時半発の飛行機で三沢へ。高レベル放射性廃棄物を積んだイギリスの輸送船パシフィック・スワン号の六ケ所村到着の状況を見せて頂きたいと日本原燃株式会社に申請しておいた。一応明日接岸ということになっているので、今日は古牧温泉泊まり。 夜、食事をしながら、現状説明を受ける。私は原子力についてはいいも悪いも発言できないのだが、放射性物質を運ぶ船の小説の準備をしているので、陸からの視線を少し見ておきたかった。 夜はさらさらと小雪。 三月十一日 朝七時半。車で六ケ所村に向かう。まばゆいばかりに明るい朝。私は六ケ所村は初めてである。十年、十五年前の冬に来た人は陰々滅々たる最果ての地だと思ったことだろう。土地でも人でも印象は、刻々ととめどなく変わることを楽しく恐ろしく思う。 朝の情報では、木村青森県知事が総理に会うまでは入港を認められない、というので、状況ははなはだ不透明。というより接岸はほとんど不可能と思われるが、日本原燃の現場事務所で一応の状況の経過を見ることにする。 望遠鏡の中で、沖のパシフィック・スワン号は一事青い船腹を見せていたが、やがて視界から消えた。日本領海の外へ出たためという。一月二十一日にフランスのシェルブールを出て以来五十日。乗組員は無寄港の航海でずいぶん疲れているだろう。 このパシフィック・スワンの母港であるイギリスのバローと、返還ガラス固化体を積み込んだフランスのシェルブールにも私は取材に行ったことがある。バローは荒涼として、シェルブールは強風にさらされていた。船は人生そのものだといつも思う。私は最近では、ことが予定通りに運ばないことさえもあまり不平に思わなくなっている。人生はそんなものだという思いは年々深くなるからだ。 午前十一時を過ぎると、たとえ接岸できても陸揚げの作業が日没までに終了しないので、今日はもう無理だろうということになり、車で施設の周辺を見に出た。近くのショッピング・モールまで寄る。 予定を変更して、午後の早い便で東京に帰った。 三月十二日 午前十一時。国際開発救援財団の評議員会。 午後二時半、ヘレン・ケラー財団のジョン・パーマー理事長来訪。オンコセルカというアフリカやラテン・アメリカにある病気の撲滅に関して平成三年度以降の日本財団の支援に関する感謝を述べに来られたのだという。 この病気は、普通「リバー・ブラインドネス(川の失明)」と呼ばれ、ブユに刺されることで体に入るフィラリアで、失明したりひどい皮膚病にかかったりする。罹患による障害者は推定七十七万人以上、既に四万七千人以上が死亡した。アイベルメクチンという薬を一年に一粒飲めばいいという。誕生日に飲めばいいのだから簡単なようだが、十年以上は飲み続けねばならないのが大変だ。 夕方五時、駒込病院に友人を見舞う。途中、自動車電話で、秘書室長の星野妙子さんの母上の死去を聞いて驚く。 夜七時、九段でテレビ東京の関係者と日本財団の番組についての打合せ。 三月十三日 九時半少し過ぎに日本財団に出勤。カーター元米大統領が十時少し過ぎに財団に見えるのだが、三十分も前から六人のアメリカ側のSPが応接室の前にもいるので、椅子をすすめ、会議室の各国首脳から頂いた贈り物を集めてある飾り棚を覗き込んでいるSPもいたので、電気をつけてよく見えるようにして上げた。 その最中に、私の書いた原稿が困るという大阪新聞社からの電話。私はよく誤字を放置したり事実の思い違いをしたりするから、指摘されるとその度に深く感謝してすぐ直して来た。しかし今度のは、故司馬遼太郎氏の講演内容に対して少し反対意見を書いただけでその部分を直せというのだ。 前々から私の動物的な勘が、氏に対するマスコミの不自然な神格化を感じていたけれど、それは錯覚だろうと思っていた。しかしこうなってみると、勘は正しかったのだろう。神格化は、崇めたがる方の弱さの結果である。 私は司馬氏の人格や私生活を貶めたわけではない。ただ内容の一部に異論を(それも署名原稿で)唱えただけで、担当記者が東京まで飛んで来て改稿を迫るという異常反応ぶりは、昭和天皇のご不例の時の自粛という名の自主規制を思い出させる。 戦後の新聞は決して言論の自由を守っては来なかった。それに対して私は今までに何度同じような返答をして来たことか。そのままお出し頂くか、連載を打ち切るか、どちらでもそちらでお選びください。いつも同じ答えだった。連載が一つ減るか、という予感だけでも、怠け心は一瞬幸せ。だが事件の本質は暗い。 大統領には、財団が近くブルイリ・ウルセールという悲惨な皮膚病の撲滅に五十万ドルを使うことになりました、とご報告。象牙海岸で会った患者さんの中には、皮膚が腐って骨が見えている少年や、乳房が落ちてしまった若い娘さんもいた。
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