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南アのヨハネスブルグで、エイズの末期患者たちが入る施設は、小さな家のような親しみのあるものであった。談話室など見たら、それがホスピスだということはわからない。しかしここに来るまでに、患者はどれほどの心の葛藤と闘い、今もなお闘っていることだろう。
患者がここに来ることを決意するのは、肉体的限度を感じるからであった。口内炎から始って食道、腸など、あらゆる粘膜がだめになって来るから、激しい下痢が続く。一月で十キロも痩せる。体力がなくなると、トイレにも立てなくなって、おむつに下痢するようになる。おむつを取り換えるだけでなく、その度に汚れたお尻を清潔にしなければならない。それらの世話をするのは、家族以外の女性たちが多い。或る町では、五十九人の女性に、「一人の勇敢な男性ボランティアが加ってくれています」とシスターはおもしろそうに言った。
施設に入ると、そこはどんなに温かく経営されていようと、それは我が家ではなかった。患者たちは落ち込み、あてどない怒りに燃え、時には罪の意識にさいなまれるという。しかし、誰であろうと、人間はそれほどいいことも悪いこともしないのだ。
ここでは食事には充分に気を遣うが、もう抗ヴィールス剤は使わない。一月に三十人以上も死ぬ、ということは毎日誰かが死んで行くことになる。霊安室が急いで建てられたのも道理である。
開所式では、私たちは「アメイジング・グレイス」を歌った。この歌はアフリカ人独特の、小節のきいた歌い方をすると、悲しみも温かさも増す。「一度、私は失い、今私は見つけた。かつて私は何も見ていなかったが、今私ははっきりと見ている」と歌は続いている。患者たちは当然、今日が霊安室の開所式だということを知っているだろう。歌声も聞いているに違いない。彼らは目前に迫った死と、まだ希望としてしがみついている生の中間に自分がいることも知っているだろう。
私たちは南アに対する援助の第一が、エイズの人たちの霊安室の建設だったことに、いくらかショックを受けていた。
しかし考えてみれば、私たちキリスト者たちは、誰もが定められている死の日を、「生の日(ディエス・ナターリス)」と認識することを習った。永遠の生命に向う誕生日なのである。それを思えば霊安室の建設も、人間の単なる通過点を助けたと思えばいいのかも知れなかった。
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