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≪ 日本は沿岸国に対し具体的な協力をしなければならない ≫
マラッカの城塞の跡、セントポールの丘からは、海峡が一望できる。光射す海原を大型タンカーが悠然と行き過ぎ、霞がかったその先には、インドネシアの島々が影絵のように映し出されていた。 マレーシアの首都クアラルンプールから車で約二時間、灼熱の太陽の下を南東へ走る。長く見慣れたヤシのプランテーションが途切れ、東南アジア特有の喧騒の気配がしてきたら、そこがマラッカの町の入り口。
海上交通の要衝マラッカ海峡は、一日に百二十隻程の大型船(千トン以上)が通航する。日本人が消費する石油の八〇%が、この海峡を通過している。その量は、一日平均五十六万トン、ドラム缶にすると二百八十万本になる。マラッカ海峡が、日本の生命線と言われるゆえんである。マラッカ海峡の名は、十五世紀マレー半島西部沿岸に栄えたマラッカ王国に由来する。
旧マラッカ王国の都、マラッカは、今でもマレーシアにおける中堅港湾都市である。また、歴史的な町並みが多くの観光客を集め、賑わいを見せている。船に携わるものなら一度は訪れてみたい「いにしえの都」である。
マラッカ王国の建国者パラメスワラは、スマトラ島北西部に勢力を持ったパレンバンの王族であった。十四世紀末、ジャワの勢力に追われ、海峡を渡り現在のマラッカに居を構えた。
マラッカを都としたパラメスワラは、マラッカ川河口の天然の良港に目を付け、マラッカ王国を港湾国家として築いていった。
一四〇六年、この港の沖合いに二百隻を越える大船団が出現した。明の大監、鄭和の率いる大船団である。「鄭和の南海大遠征」と呼ばれるもので、一四〇五年、永楽帝の命により、二万七千八百人を乗せた大船団が、南京郊外を出港した。目的は、広く世界に明国の威勢を誇示し、朝貢を求めるためであったと言われている。遠征は、足かけ二十八年、七回行われ、アフリカ大陸東岸まで到達するものであった。
マラッカを訪れた鄭和は、恭順の意を示すマラッカ王国を庇護するとともに、マラッカ海峡に勢力を伸ばしていたアユタヤ王国の勢力を封じ込めた。鄭和の大艦隊の威力によりマラッカ海峡は、明の影響下におかれた。
鄭和は、一四〇九年マラッカ国王に永楽帝からの詔勅を与え、独立を保証するとともに、明の傘下に組み込んだ。
また、マラッカに本格的な港湾機能を作リ上げたのは、この鄭和である。マラッカ海峡の中心に位置する利便性を重視し、南海遠征艦隊の基地「官廠」を設置した。
このことが、マラッカに光と影を与え、港湾都市マラッカの歴史に大きな影響を与えることになる。時を移し、ポルトガル、オランダ、イギリスの西欧諸国が、マラッカ海峡の利権を求めこの町に触手を伸ばしたのだ。
鄭和は、その絶対的な武力を持っていたが、征服者として海峡沿岸諸国を屈服させることはなかった。また、貿易による利潤を追及したわけでもない。
北にモンゴル民族の脅威を抱えていた、明の永楽帝は、新しい外交政策を模索していた。その中で活路を求めたのが、大海原への展開であった。
先帝の海禁政策を踏襲し、沿岸部の掌握を推し進めた。一方、明を中心とした世界的な海洋秩序の構築を求め、史上希に見る大遠征を行ったのではないだろうか。
鄭和によリ、中国とイスラム文化圏をつなぐ海の道が確立され、新しい海洋秩序が形成された。沿岸諸国との融和の中に海洋国家群が形成されていったのである。その中心地が、マラッカであった。
アジアの通貨危機以降、マラッカ海峡を取り巻く混乱した社会情勢の中で、新しい海洋秩序の構築が必要とされている。現在、この海峡の恵みを最大に受ける日本人は、沿岸国に対し、具体的な協力をしなければいけない時期に来ている。
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