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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 海賊の手紙  
コラム名: 私日記   
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2000/05  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  二〇〇〇年二月十五日
 朝ジャカルタヘ向かう。最終的には独立を勝ち取ったばかりの東チモールヘ入るためだが、ジャカルタから今夜中にスラバヤまで飛び、そこで国際赤十字がチャーターした飛行機に乗せてもらうほかはない。私が卒業した聖心女子大学出身のシスター井上千寿代が、ジャカルタの修道院にいて、現地でいろいろと奔走してくださったにもかかわらず、同行者五人のうち三席しか無理といわれている状態である。
 ジャカルタ空港でシスター・井上に会い、蒸し暑さを避けて、ダンキンドーナッツの店の一隅に陣取って、明日からの計画を話し、私が成田で買った鯖ずしやおいなりさんで夕食。飛行機も予定通り出たのでスラバヤまで一時間十分、三星クラスのきれいなサンティカ・ホテルに入る。
 
二月十六日
 オランダの匂いをただよわせて、スラバヤの町はレンガ色の瓦と濃い緑の町。朝食は六時からというのに、六時十分前にもうボーイさんが「どうぞ」と言ってくれる。中国風のお粥(コンジー)、黄身の濃い卵のトマトオムレツ、果物、コーヒー。すべておいしい。バイキングで四百円の朝食。朝の町には小豆色のスカートの小学生と、男の乞食がのんびりと陽の中にいる。
 空港で交渉したが、やはり五人全員は乗せられないと言う。祥伝社の山口洋子さんと日本財団の内海宣幸さんは、インドネシアでの別の取材をする。
 今回、私が東チモールに入るのは、ヤマト運輸が、東チモールの再建に役立てるために寄贈してくれた三十台のセコハンのトラックの輸送費一千万円を、私たちがやっている救援組織、海外邦人宣教者活動援助後援会が出したからである。さらにそのトラックが、東チモールで誰かに不法に独占使用されることなく、正当にカトリック教会で動かされるように、その目的をできるだけ多くの人に伝えて、相互監視の網を張り、かつシスター・井上に時々現地へ行ってそれとなく状態を見張ってもらうシステムを作るためである。
 三十台の「クロネコ・ヤマト」のマークをつけたままのトラックは、既に私がニューヨークに出張中に横浜から船積みされて、今、東チモールに向けて走っている最中である。
 実は海外邦人宣教者活動援助後援会がこの輸送費用を引き受けるかどうかという交渉の最中に、何も知らない明石布の小泉晴美さんが、亡くなられた兄上が遺言によって私たちの組織に一千万円を贈ってくださったことを知らせて来られた。片方で一千万円が必要で、何も知らない方が一千万円をくださる。これは神の用意されたドラマであった。
 私はお会いしたこともない小泉さんに、一千万円をトラックの輸送費に充てることで、兄上のご遺志を確実に生かしたい、と伝え、積み込みの現場を見て頂くためにご上京ください、とお願いした。しかし私はその日、ニューヨークに行っていて、自分でそのお世話をできないので、親しい毎日新聞社の南蓁誼編集委員に後事を託した。それがトラック輸送の背後の物語なのである。
 国際赤十字の飛行機はソ連製のアントノフ。窓は二つしかなく、赤十字のマークをつけた男の人が、まず、ティッシュを二枚、それから壜入りの水をプラスチックのコップでくれ、後から紅茶と塩からいビスケットを配ってくれた。
 二時間ほどでディリ空港。飛行機の後部から下ろされた自分の荷物を引きずって、暑い空港の中を二百メートルほど歩いた。空港の中にはUNの車輌と迷彩服のPKOの兵隊さんだけで、タクシー一台ない。
 暑さは三十度くらいだろうが、猛烈な湿度。外ではディリで泊めてもらうはずのシャルトルの聖パウロの姉妹会のシスターの知人の女性が出迎えてくれた。
 町中のシスターの家(修道院)は、商店街にしてもおかしくない造りで表通りに面している。この家のお母さん役は、シスター・ベルナデッタ。フィリピン人七十一歳。一目見た時から母を感じさせる。こめかみのあたりにしみはあるが、ゆったりとよく働き、よく気がつき、台所は整然としている。フライパンもお鍋も底までぴかぴか。しかも衛生を考えて風通しのいい戸外に干してある。
 私たちが通された部屋は七、八畳くらい。白いタイルの床。ベッドは一つなので、私はシスター・井上より年上であるのをいいことに、ベットではなく、シスター・井上が持参の寝袋を床に敷いて眠らせてもらうことにした。この方が私の背骨にいいのである。実はこの家も去年の暴動の時に、焼かれなかったがすべて反独立派に略奪された。ドア、戸棚、炊事用具、椅子、バケツ。シスターは日本製の炊飯器も何もかも、買ったか貰ったかしたものだという。
 シスターにタクシーを一台呼んでもらい、町を見る。完全に軒並みが焼かれている。中心部だけでなく、何でもない住宅地も念入りに焼かれている。これだけ律儀に焼くには技術がいるだろう。半焼も小火もなく全焼ばかり。乾期の一カ月くらいの間に隅から隅まで焼いて行ったのだという。
 シスター・井上は帰りに墓地に寄ってくれた。ここへ逃げ込んだ独立派の若者たちも、射殺された。シスターは、前回来た時は、その惨劇を思い出して、墓地へ入るのが怖かった、という。ここは土葬だから、思い思いのデザインで墓を飾っている。子供の墓が実に多い。
 東チモールは、今国連の世界だ。UNの車、迷彩服のPKOの兵隊だけが完全な特権階級である。遠い基地と交信するために必要なのだというが、高い太いアンテナを立てた軍事用という感じの四駆や車輛が我がもの顔に走っている。
 修道院に帰って、タイルの水がめに溜めた水で水浴をさせてもらうと、本当に蘇ったような気分になった。部屋で休んでいると、突然、三人の小銃を持った兵隊が家の中に入って来るのが見えた。そのまま部屋にいようかと思ったが、シスターと銃を持った兵隊とのとり合わせがあまりにおかしいので、台所兼食堂に出て行ってみると、三人はオーストラリア人で空軍だという。一人は全く軍人に見えるが、従軍司祭つまり、カトリックの神父である。台所の台の上には、日本の一包より大きい食パンの包がたっぷり一ダースは入ったボール箱が置かれている。今日オーストラリアからの補給便が着いたので、持って来てくれたのである。
 
二月十七日
 朝早く、バウカウヘ向かう。バウカウまで約三時間半。海を左手に見ながら北上する。バナナ、シュロ、白い木と土地では呼ばれる木が混ざる。途中の村まで焼かれている。表通りの家だけでなく、奥の方の家まで念入りに焼いてある。「放火犯」ではなく、技術を持った「放火班」の仕事としか思えない。
 バウカウの司教は民兵に切りつけられたが、幸いにも傷は治り、今は元気。トラックのことをお頼みしてから、途中で食事のできる所がどこにもないので、司教館でお湯をもらってカップ麺と干薯の昼食。
 夜、ここから出る飛行機がない場合、陸路国境を越えて、西チモールのクパンヘ出る方途を考える。東チモールのナンバーをつけた車で西チモールを走るのは避けたい。それには国境の町でシスターの家の車を下り、歩いて国境線を越え、近くの町でタクシーを雇うのが妥当だろう。
 
二月十八日
 朝、WFP(世界食糧計画)のオフィスにシスターの知人を訪ね、国境は村で、タクシーなどないことを知る。一般に、繁栄している国から疲弊している国への移動は簡単だが、貧しい国から豊かな国への出国は、様々な障害を伴うのだ。あれこれ考えて陸路脱出計画は放棄。空港で現在唯一の民間航空路線であるオーストラリアのダーウィン行きの空席を探す。午後二時に来てみるのはいいが、ほとんど空きは望めないとのこと。仕方なく東京のUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)から、私たちの身分保証をしてもらい、WFPの飛行機に乗せてもらう他はない、ということになる。しかし国際携帯電話は東京に通じない。001も、0041も、0061もだめ。試しに0011のオーストラリアを中継してみたら、なぜか出た。偶然の僥倖。
 東京オフィスの緒方貞子高等弁務官の秘書の斉藤千香子さんにディリのUNHCRへの連絡を頼み、それから市内のUNHCRへとって返すと、女性の職員が「もし飛行機が取れなかったら、あなたどうするつもり?」と聞く。「なにか、計画がある?」「いいえ、なにもありません。ここはいい気候ですから、空を見ているだけです」と私は答える。すると彼女は笑って言う。
「空はきれいなのよ。でもここから脱出することを考えたら、『悪夢』だわ」
 やっと午後二時、WFPがチャーターしているクバン行きの飛行機の席にありつく。ほんの少し難民の気持ち。
 島の海岸伝いに飛んで、夕方クバン着。町中の航空会社のオフィスでササンドウという丘の上の安ホテルを紹介してもらった。冷房、お湯、嬉しい。テレビはあるがCNNの声が出ない。
 夕食はサテ(インドネシア式串焼き)。冷たいビールは大壜が千円もするが、自由を祝って乾杯。夜寝るまでに何回も、数秒から十数秒の電圧低下と停電。その度に冷房機のスイッチを入れなおす。
 
二月十九日
 朝六時までぐっすりと眠る。昨夜、バウカウヘの道で買った乾燥エビをタッパーに移し換えた時(臭気を防ぐため)親指を刺された。エビの傷が元で死んだ、などと言われたくない、としみじみ思う。午前中執筆。昼食は魚のお粥。三時にホテルを出て空港へ。
 
二月二十九日
 東チモール帰国後の長い風邪引きがやっと治りかけた。
 十時、執行理事会。
 十一時、新しい社屋となる旧NCRビルを見る。各部の部長さんにそれぞれ計画希望があるだろう、と思われるので総見となった。
 午後一時半、国土緑化推進機構運営協議会。
 四時、船の科学館で、新型海賊警報装置の発表会に約二百人もの参会者があってびっくりする。この警報装置は山和マリン株式会社の機関士・藤山高志氏ほかが考案されたもので、費用は安く、誰にでも取り扱え、手入れも簡単、が特徴である。ペットネームは「とらのもん」というのだそうだ。虎の門の日本財団すぐ前には、金比羅さまがあって、船の航行の安全を守ってくださるからである。
 かつての南極観測船「宗谷」は、今日本財団が展示して見学者に公開しているが、その船尾を利用して、海賊に扮した財団の職員が、ボートで近づいてロープを投げ上げて安全装置が作動する様子をお見せする。
 しかし現実は笑いごとではない。最近の海賊は片手でロープを伝って上りながら片手で自動小銃を構えているという。警報装置が鳴って甲板にかけつけた船員がうっかり顔を出して下を見たら撃たれる可能性がある。警報装置が鳴った後でどのような防衛策を講じたらいいか、今後、海上保安庁と海上自衛隊からも講師を招いて、船の関係者に考えてもらう必要があるだろう。財団はインターネットのホームページ上に海賊情報データベースを開設している。
 今日現在、日本の船主さんが実質的には保有している「グローバル・マース号」が、タイのプーケット沖で二月二十三日以来行方不明になっている。
 
三月二日
 九時半から十二時半まで、司法制度審議会。
 午後一時半から国土緑化推進機構インタビュー。
 四時、科学技術庁・小中審議官。
 六時、古くからの知人の編集者と夕飯。
 
三月五日
 八時十五分に家を出て、丸亀へ。
 丸亀競艇場で、女子王座決定戦へ日本財団会長賞を手渡しに行く。二分間足らずで、一千万円も儲けるのだから、これこそ男性も女性もない世界。
 丸亀でひどいジンマシンが出た。抗ヒスタミン剤を飲んで薬が廻った頃、テレビ出演の時間になったので、たぶんロレツが廻らないだろう、と心配したが、どうにか気づかれずに済んだ。
 
三月七日
 ボランティア支援部の援助金説明を聞く。全体で一千二百七十件の応募があった中から、二百八十五件が採用されたのだが、すべての説明を聞くには五、六時間はかかる。支援のお金を出す先に関しては、ネズミのような、ミミズのような説明できない感覚がいささかあるつもりなのだが、それに頼らず、実際に調査したデータをよく聞くことにしている。
 四時から定例記者懇談会。
 その後、一九九九年にチェルノブイリヘ行った人たちと、ひさしぶりの懐かしい同窓会。
 
三月九日
 十時、出勤。十一時よりボランティア支援部の援助金の残り部分の説明。
 二時、未来工学研究所インタビュー。
 三時、TBSラジオ「中村尚登ニュース・プラザ」録音。
 四時、台北駐日経済文化代表處・荘銘耀氏。台湾に差し上げた三億円の地震見舞いのお金の使い道に関しての中間報告を受ける。最近、商社関係という人で、私の知人という人が突然現れているらしい。私は商社にお金の「親友」は一人もおりませんから、くれぐれもそういう雑音は無視なさいますように、と笑って申し上げておいた。
 
三月十日
 飛行機で広島から江田島へ。
 海上自衛隊の幹部学生、幹部候補生など約六百人に講演。明日、柳井に行く予定があると言ったら、ついでに江田島で講演をするように言われたのである。
 飛行機の中で、海幕教育課の梅崎三佐と海賊問題について話をし、海上保安庁との「意思疎通の会」に双方の若い世代をお呼びしたい、ということになった。
 夕方、広島まで戻り聖心女子大学時代の友人たちと会って、夕食。日本財団が出資している今年七月のハノーバーの万博と、私が作詩を受け持った三枝成彰氏の『レクイエム』がイタリアで再上演されるのを聞きにいく、と言ってくれる。今が私たちのゴールデン・エージか。
 
三月十一日
 午後の列車で柳井へ。医師会と市の生涯学習課の共催による講演会。帰り広島空港への途中、少し雪が降ったが飛行機は無事に出た。
 
三月十二日
 前からどうしても見たかった新派公演、水谷八重子の『滝の白糸』を国立劇場で見る。ほんとうは水芸が目的だったのだが、ひさしぶりに感動的な凛とした美学のあるお芝居だった。
 苦学して法学を学ぶ学生とふとしたことから知り合い惹かれた白糸は、彼に学資を送り続けるが、そのことで殺人を犯す羽目になる。恋する男が無事、検事代理として立つ法廷で、何も事情を知らない裁判長から、「どうして妻にしてもらうつもりもなかった男に三百円もの大金を送った」と聞かれると、白糸は「ですから、幾度も申し上げております。私の酔狂でございますから」ときっぱりと答え、死刑の判決を受けるのである。
 酔狂で命を賭けた生き方をするのである。何でも都合の悪いことは、他人や政府のせいにする今の日本の風潮とは、百八十度の違いである。
 
三月十三日
 今年から日本財団は、訪問入浴車を全国に寄贈し始めた。風呂桶は二つ折りか、縮めて車に入れる。車種は、希望する団体が指定し、補助金の率は八〇パーセント。今年分は約四百台。来年以降もずっと続ける予定である。今日は「船の科学館」の庭で、贈呈式と、そのデザインに応募して当選された浜田泰弘氏に賞金を贈った。たくさんの方が実際の使い方を勉強しに来てくださってありがたいことである。
 午後、中央省庁改革推進本部・松田事務局長来訪。説明を受ける。
 三時、外務省経済協力局技術協力課より大部課長。トルコヘ贈った阪神淡路大震災の被災者が使った仮設住宅が、現地で大不評だったというNHKの番組は全く不正確で、実は非常に喜ばれたという調査結果がある、という報告である。もちろん不平不満はこういう場合つきものだが、「ありがとう」や、「前よりいい家に住めた」という人もいて自然だろう。私も番組を見てNHKの視点を元に印象を書いたのだが、それなら訂正しなおさねばならない。悪いと言いさえすれば、安定した知的・反権力番組になる、という空気は今の日本に蔓延している。(この問題は、三月二十三日号の『週刊文春』にも慶応義塾大学の草野厚教授が書いておられた。つまりトルコの業者選定の不手際もあったし、建物の不具合は「NHKが成功として報じたドイツ、イスラエルにもあった」という。日本の仮設住宅のよかった点や、取材時に日本に感謝するトルコ人のことはNHKは報道しなかった。草野教授は「事実の一部しか伝えず、自虐的報道を行ったNHKの責任は大きい」と書いておられる)
 
三月十五日
 夜十時、日本財団海洋船舶部から私の自宅に行方不明船「グローバル・マース号」の詳報が入った。
 賊は十三人、覆面、ライフ・ジャケットを着用。刃渡り三十センチのナイフで武装。マシンガンは二人。乗組員は十三日間船倉に監禁され、夜は甲板で眠る。食事は一日二回。三日おきに食料補給船が来た。賊のうち八人と漁船に移乗。賊は筆談で乗組員に次のような紙切れを示した。
「WE WILL SAND(SEND) YOU TO THE SAVE(SAFE) PLACE DON'T WORRY ABOUT ANYTHlNG (WE WILL SAVE YOUR LIFE) WE WILL FREE YOU WITH IN ONE WAEK(WEEK) WE WILL BRING YOU BACK TO YOUR PLACE WITH IN ONE WAEK (WEEK) DON'T WORRY ANY THING WE WILL SAVE YOUR LIVE(LIFE) TAKE EASY」
( )の中は私が正しいと思われる綴りに置き換えてみたものである。「安全な場所に帰す。何も心配ない。一週間以内に解放する。一週間以内に家に帰す。心配するな。命は助ける。安心しろ」ということか。
 三月七日。乗組員はエンジン付きの小型ボートヘ移され位置を教えられる。十日朝、食料、燃料、水を貰い、近くの島へ向かう。午後一時頃、スーリン島に着き、警察に連絡、保護される。人命に関してはほっとする連絡だが、船も積み荷も返らない。さっぱりしない結末である。
 
三月十八日
 昨夜ひさしぶりで三戸浜の海の家に来た。二月は十八日間しか日本にいなかったので、畑は放置した。水菜は伸びすぎ、チンゲンサイには花が咲き、ダイダイは熟れすぎ。
 朝、亀井龍夫氏夫妻、大和正道氏夫妻来訪。
 亀井さん、駅からタクシーに乗って「三浦朱門さんち、知ってますか?」と聞くと、「知らないね。汚職した人だと、すぐわかるんだけどね」だった由。これは秀逸な話。
 庭にタヌキが現れる。この家に三十年以上暮らして、こんな近くで見たのは二度目。
 行動が緩慢で、私たちを、見ても逃げようともしないのは、お尻から、血の色のついた長い袋のようなものを引きずっているからだ。タヌキのキンタマかと思ったが、脱肛らしいと誰かが言う。捕まえて治してください、といっているようでかわいそうでならない。
 夜はキス、メゴチ、エビでお座敷てんぷら。庭に生えていた菜芯をいためて牡蠣ソースであえたらなかなかの味。
 
三月二十日
 朝、押入れの天袋を開けて、中から子ダヌキ四匹発見。生まれたばかりで眼も開いていない。天井裏に侵入した穴は見つけたが、昨日、脱肛と見えたものは、まだ胎盤を引きずっていたのだろう。私は大忙し。スポイトを買いに行き、ミルクを飲ませる。タヌキは夜行性だから、夜子供を見つけに来てくれるといいのだが。一日タヌキで振り廻される。
 



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