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昨日に続いて楽しい新聞種をもう一つ。 オーストラリアのサウス・ウエールズ州に住む五十六歳の男性が、宝籤(くじ)で約十億円を当てた。ところが彼はそのお金のほとんどを放棄する決心を表明した。 この幸運な人の名前は明かされていないが、彼は約九千万円だけを自分で取り、後はもっと必要としている人にあげることにした、と言った。 「私が使うには多すぎる、ということなんです。 私はオーストラリア中の知人に『おい、僕が億万長者になったってことを信じられるかい?』って一日中電話していたんですよ。しかし誰も信じられない、って言うんです」 彼は商人だが、この幸運のために一日も仕事を休んだりはしなかった。 「働くのを止めるのは嫌いなんでね。金が入ったら、そう、今までよりもう少し多く、休みを取って、魚釣りをしたり、プールで泳いだり、多分、ゴルフもしたいとは思っていますがね」 人間ができることには、すべてに限度がある。使えるお金にも、時間にも、心遣いにも、である。その限度がないのは、人に注ぐ愛だけなのかもしれない。 だからお金は少しはあった方がいいが、使えないほどある必要はない。それがわかっているこの人は、賢明であった。 金銭的な大きな幸運は羨むほどのことではないのである。賞というようなものが与えられる時、多くの人は、もうお金が自分のためには要らない状態になっている。或いは、前後の行きがかりから、賞金を自分のものにはできないようになっていることもある。賞金は多くの場合、それが要らない人に与えられるものなのである。 他のすべての予期しない幸運もそうだ。悪銭は身につかない、と言うが、自分でこつこつ勝ち取ったものでない限り、ほとんど全ての幸運と金銭は身につかない。それどころか、堕落、病気、裏切り、退廃、不和などの種になることが多い。 この五十六歳は、平常心を失わなかった。この人なら、バブル経済の絶頂期にも、借金して土地投資をしたりはしなかったろう。 自分が必要とするものだけ、感謝して使うことを運命に許してもらい、後は、要る人に回す。そうすれば、物もお金も生きる。私たちは、人も物もお金も殺すべきではないだろう。 通俗的な悪意ある見方もおもしろい。つまり運命は、要らない人に金を贈る皮肉が好きなのだ。それはもっと彼の心を虚しくさせるためである。そこから立ち直るか、金や幸運の毒に全身をやられるかは、その人の選択次第である。 オーストラリアのサウス・ウエールズ州のどこかで、健康に日焼けしたこの人に会ってみたい。「もちろん、幸運はとてもおもしろかったよ」と彼はのびのびと答えそうである。
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