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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 月食  
コラム名: 私日記 第9回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2000/09  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  六月二十日
 朝、インドに帰国するロッシ神父をうちの車で成田へ送る。出る間際まで、ムンゴッドのロヨラ学校に必要な九棟の寄宿舎のお金の出し方の話。ロヨラ学校とは私が度々書いている南インドの田舎の小学校で、場所は、インドのシリコンバレーといわれるバンガロールから、車で九時間もかかる奥地にある。生徒たちはアフリカから奴隷として連れて来られた人たちの子孫やロマたちで、今でも人の顔を見ると逃げる部族もいる。長年、逃亡奴隷として生きて来たので、見つかると連れ戻されるという厳しい現実が、遺伝子から習性に残ってしまったのだろうか。その子たちの家は林の間の道なき道を行った奥で、路線バスなどというものもなく、とても毎日歩いて学校に通える距離にない。それで寄宿舎が要るのである。目下のところ子供たちの一部は夜、教室の床に寝ている。
 
六月二十三日
 今日中に原稿を書かないと明日トルコに発てない。こういう半分風邪をひいたような怠け気分が強い時は、二階の寝室のベッドの中で書く。こうすると、電話のベルも聞こえず、だるさも少しごまかされる。
 夜になって仕方なく荷造り。イスタンブール工科大学、神戸商船大学、アラブ工科大学、カーディフ大学、メイン商船大学などが幹事大学になり、「国によってばらつきのある商船大学教育のカリキュラムの均質化やレベルアップを図る」のが目的で、横の連絡を密にする組織を作った。その準備のための資金を日本財団が出している。今や商船のほとんどが国籍の異なる船員たちの混乗時代に入っているので、中に未熟練船員が混じることは危険に繋がる。発会式の時の英文のスピーチの原稿は手荷物とトランクに一部ずつ入れた。
 
六月二十四日
 午前四時起床。前夜入れ忘れていた機内用の薄いウインド・ブレーカーと傘と「電子字引」用の予備の電池を入れる。
 植木職の中島さんが届けてくれたスイートポテトを半個食べて家を出た。羽田で財団の海野光行さんと合流し、七時四十五分発の飛行機で関空へ。十二時五十分発のトルコ航空イスタンブール行きに乗るまでに、待合室で大阪新聞と産経新聞の連載エッセイ二日分を書き、ビジネスセンターからファクスで送ったら、一枚百六十円も取られた。外国並みの高さ。空港は一種の公的施設なのだからビジネスセンターがこんなに儲けてはいけない。ちなみにコピーも五十円だとこれは海野さんの調査。
 飛行機は北京ルート。ウルムチ、アルマトイなど、胸の躍るような地名が見える。日本茶を頼むとトルコ人のスチュワーデスは優しく「お砂糖を入れますか」と聞いてくれた。予定より三十分早くイスタンブール着。ヨーロッパ側の(町自体が、アジア側とヨーロッパ側に分かれている)北部のプリンセス・ホテルまで一時間近くかかった。
 
六月二十五日
 やはり時差で、午前四時半に目が覚める。丘に囲まれたすばらしい地形。やがてトマトの赤と同じ色の日の出が見えた。午前中ホテルの部屋で原稿を書き、昼食も抜いた。一時半、バスで今回の幹事校、イスタンブール工科大学の海事(商船)学部へ行く。バスの中でサー学部長から、純白の制服の学生の音楽隊の前で、代表して歓迎を受ける際の伝統的挨拶の言葉を教えられた。まず「メルハバ!(今日は)」と言い、学生たちがそれに答えたら「ナススヌス!(お元気ですか)」と言うのだそうだ。スペイン語やイタリア語と違って、トルコ語は発音のルールが違うので、こっそりカタカナで掌に書きつけた。
 海辺の道に純白の制服を着た学生たちが並んでいる。日本から来た商船大学の学生も三人いる。こういう青年たちを見ると気分が明るくなる。
 小さな岩壁からランチに乗って、沖に停泊している「アクデニツ(地中海)」という船に移動。一九五五年にドイツのブレーメンで建造され、トルコ海運株式会社の船として就航したが、今は第一線を引いてイスタンブール工科大学の練習船として沖に停泊したままになっている。もはや航行する能力がないらしい船内でお茶の会。全長一四四メートル、十九ノットを出したこの船は、かつては千人近くの船客を乗せてピラエウス、ナポリ、ジェノア、マルセイユを経てバルセロナヘのルートを走っていた。一等客室を見せてもらったが、古い時代の豪華さがそのまま色褪せていた。
 夜はルネッサンス・クラブで夕食。隣席に坐られた海事大臣はもとはエンジニアだそうだが、ドナウ川の水質管理の難しさを話された時には胸に迫った。ドナウの水を使う国々は今ほとんどが貧しく、貧しいからこそ汚水を垂れ流す。黒海はそのどんづまりで、トルコはボスポラス海峡を北上すると、この黒海につき当たるのである。貧しさは人を傷つけるが、同時に貧しさは国際社会で一種の「裏焼き」の強さを持ち始めた。「金がない」といえば、誰もどうにもできない。
 
六月二十六日
 国際海事大学連合の発足式。
 まずヴァイオリンの独奏。それから来賓の祝辞。私も六、七分の短いスピーチ。ついで新しい参加大学の紹介。この中には東欧の大学で三百ドルの年会費も払えないからなんとかしてほしい、という大学もあった由。世界は本当に厳しいのだ。
 昼食には、元提督、船長だらけ。私はこういう儀式や社交に向いていないので疲れ切って帰ると、またホテルで新聞記者会見。夕方からのクルーズは失礼して、ボスポラスに面した魚料理屋へ逃げ出して、シーバスの塩焼きを食べた。
 
六月二十七日
 朝七時ホテル発、アテネヘ。飛行機は一時間遅れでイスタンブールを出た。アテネ大学に設定してある「ヤングリーダー・スカラシップ」の運営状況を知るためである。
 昼少し過ぎアテネに着いて、ホテル・ブルターニュヘ。シンタグマ広場に面したこのホテルには今まで泊まったことがなかった。窓からアクロポリスの丘と神殿が見える。先年地震があった時も、この遺跡には全く損傷が出なかった由。夕方、お上りさんらしく、アクロポリスの見えるレストラン「ディオニューソス」で食事。魚のスープとムサカを食べられて大満足。
 
六月二十八日
 朝九時、アテネ大学へ。日本財団が出している「ヤングリーダー・スカラシップ」が実際にどう使われているかの調査。
 四人の教授たちと四人の学生たちは、どの人も自由闊達だ。スカラシップは各学部毎に一人ずつ割り当てられており、他のスカラシップと重複しないように決められている。使い道はさまざまらしい。調査旅行や演劇関係だと公演の費用の足しにしたり、本を買ったり、年間約三十万円ほどだから、ささやかな勉強の助けというところだ。この奨学金の責任者のエヴァンゲリデス教授は後でわかったのだが、スーダンに数年暮らし、ろくろく食べられない人たちがたくさんいるのを身近に見ていた。そういう貧困、病気、別離、政府の無能などを目のあたりに見ないと、人間は人生を理解できないのかもしれない。
 
六月二十九日
 アテネからパリ経由で、北スペイン、バスク地方にあるビルバオヘ。重工業の中心都市で、先頃七百年祭を祝った。
 ホテル・インダウチューという奇妙な名前はどこから来たのか、と思っていたら、やっとバスグ語だとわかった。食堂はどこも夜八時過ぎでないと開かないというので、近くのバーでサンドイッチと、ミルクコーヒーを飲んで早く休むことにした。サッカーの試合をテレビで流しているので、それを見に集まって来る男女は、これからパーティーに行くらしい。「吊るし」なのだろうが、オーガンディ風の長いスカートとストールがお対の生地、上はタンクトップで、タバコを吸う手つきに奇妙な色気のあるお嬢さんもいる。小柄な男性は細めの襟の背広を着ておめかしをしている。初期のピカソが喜んで描きそうな人たちだ。
 
六月三十日
 奨学金の世話をしてくださっているフリア・ゴンザレス教授と共にドライヴ。車中で、ピカソはゲルニカを描いた後、その作品について何も語っていないという話を聞く。ゲルニカを持ち上げる後世の解説をピカソが読んだらどう思うだろう。彼はただ、黙々と死者たちを悼んだだけなのだが。
 この土地のシンポルは樫。その葉を、教授が通りがかりの公園で取って下さった。バスクは、漁民と農民と炭鉱労働者の土地だという。議会の建物の天井のステンド・グラスにも、中央のイエス像を取り囲むように、この三群の人々が工場群と共に描かれている。
 ビルバオ市に戻り、日本財団が「ヤングリーダー・スカラシップ」を設定したデウスト大学に行く。この奨学金制度は一九九三年に百万ドルの基金を積んだもので、私が財団に行く前の話である。だから私の知識に欠けているところがあり、門の所に彫られた銘板で、今度初めてイエズス会がこの経営に関与していることを知った。学長は背広だが、ホセ・マリア・アブレーゴ・デ・ラシイ神父である。
 運営委員会の教授たちと三十分ほど話をした後で、昼食に名物の塩ダラ料理をごちそうになった。おいしいけれどやはりからい。
 大学に戻り、十四、五人の奨学生たちと歓談。中に五人ほど南米の少数民族の留学生がいる。ヒメナとエルサはチリ、ボリビア、アルゼンチンなどの国境地帯にいるアイマラ族。エルサはアルゼンチンの国籍で、十二歳の時から二十一歳の現在まで原住民保護協会で働いた闘士。百万人といわれる原住民の権利が認められるようになったのは、一九九四年以来である。ミグエルはコロンビアのヴァイジュース族。彼の子供にはお尻に青い部分がある、という。サムエルはペルーのアマゾン地区で生まれクパルカ大学の農学部に行った。皆、ピカピカの原住民エリートである。イグナシオは白人で、二十五歳以上の成人教育の勉強をしており、パレスチナ人のハイサムは、イスラエル原理主義の研究をしている。世界中から誤解されているのは悲しいのだそうだ。
 今夜もバーで簡単にビールとサンドイッチ。ホテルの食堂は九時からしか開かないので、とても日本人には待てないのである。
 
六月三十日
 朝、食堂の前で個展をしていたハヴィエル・ガリサという人の水彩画を買った。額縁がバスクの手仕事で樫の実がデザインされたもの。「春が来た」という題。
 
七月三日
 旅の疲れが取れたところで今日から仕事開始。午後、NHKテレビの人間講座「現代に生きる聖書」の収録。
 
七月四日
 日本財団へ出勤。
 九時四十分、新ビル説明。
 十時、執行理事会。
 十一時、広報部、新聞記者会見の内容打ち合わせ。
 十一時半、カトリックテレビ放送。
 二時半、外務省軍備管理軍縮課。
 三時、法務省司法制度調査部。
 四時、定例記者懇談会。
 
七月五日
 九時、追浜の住友重工業へ。巨大浮体「メガフロート」で作られた人工の浮島を滑走路に使って、小型飛行機の離着陸実験の公開がある。取材のヘリなどが上空に十機以上。私も公開一番機に乗る。上空では一本の棒のようにしか見えない浮体が、高度百メートルまで下りて来ると、広々とした大地に見える。新聞記者「普天間基地の代替えにしてほしいと考えてはいませんか」「それはもちろん、ですが、それ以上、日本財団が言うことは誤解を招きますし、またその立場にもありません」
 つまらない返答をするようになったものだ。しかし本心。
 
七月六日
 午後、NHKの「現代に生きる聖書」収録。
 夜、友人と遊んでやっと解放感。
 
七月七日
 正午、日本財団。
 二時、司法制度改革審議会。
 四時、教育改革国民会議。
 六時半、モンゴルの有名な馬の調教師ダワフーさんのご子息、エルデネバットさんたちとてんぷらで食事。モンゴルで私はダワフーさんの天幕に泊めて頂いたのである。寒かったけれど、ほんとうに楽しかった。たった一日、北京の帰りにモンゴルに遊ばれた日の故小渕総理がダワフーさんと撮った嬉しそうな写真を見た。
 
七月八日〜十日
 友人夫妻と三戸浜。病後で食欲のなかったご主人が転地をされたので少し食べられる、と言われたので嬉しい。この季節にしては珍しく、澄んだ夕方の裏富士が見えた。
 
七月十一日
 九時、日本財団。新ビルの各階をどう使うかについてのミーティング。
 十時、執行理事会。
 十一時過ぎ、海事広報協会の新旧理事長。
 十一時半、駐日ベトナム大使。
 正午、南米行き、初顔合わせ。
 午後二時〜五時、司法制度改革審議会。
 六時〜八時、教育改革国民会議。
 
七月十二日
 四時、教育改革国民会議の第一分科会、提出答申の作文。委員の発言を落さずに書けばいいのだから楽なものだ。それなのに、十枚に二時間もかかってしまった。その後字句の訂正。
「どんどんおっしゃってくだされば、どんなにでも、いくらでも直します」
 
七月十三日
 NHKの人間講座を午後二時から午後九時までかかってついに十二回分の収録完了。肩の荷が下りた。やっぱりテレビはあまり好きでない。
 
七月十四日
 朝早く家を出て、司法制度改革審議会の勉強会に出席のため札幌へ。一日中、法曹関係の場所と機能の説明を受ける。
 老猫のボタは私の『飼猫ボコ子の生活と意見』という小説のモデルだが、ここのところ食欲がなかった。毎年暑さに弱い。二十三歳の今日まで、毎夏、食欲がなくなる。昨日は頂いた鮎を少し、特別に焼いてやった。ネコにまたたび、ボタに鮎、ということなのだが、普段は人間の食べ残ししかやらない。私はいつもアフリカの食糧事情を考えてしまう。その鮎を少し食べて、夜になっても姿が見えない、と夫が電話で言う。
 
七月十五日
 一般の人からの司法制度改革についての公聴会。とは言うものの発言者は全員がほとんどその道の専門家。快く教えられる。
 夕方帰宅。来客。ボタ、まだ見えない。今度はだめかもしれない、と思う。今朝一声、声が聞こえたが、出てみるとどこにもいなかった、という。手伝いに来てくれたMさんが「その時、死んだのかもしれませんね。知らせに来ることもあるんです。今日はお盆だから、お迎えが来たとすればいい日です」と慰めてくれた。
 
七月十六日
 私の『戒老録』というエッセイが芸術座で、山田五十鈴さん、淡島千景さん、丹阿弥谷津子さん、寺島信子さんなど、私の好きな大女優さん方が出てくださってお芝居になっているので初めて見に行く。
 脚本の小池倫代さんの腕の確かさは、舌を巻くほどのものである。私には小説は書けても、これだけの脚本はとうてい作れない。実によく勉強をされている。
 楽屋に山田五十鈴さんと淡島千景さんをお訪ねして、ほんとうにおきれいなのに(当然のことかもしれないが)びっくりする。赤いジャケットを着て、サングラスをかけて、私といっしょにふらりと町へ出て来られた山田五十鈴さんは八十歳を超えておられるというのに、一瞬見た時は十六歳。よく見ると五十代にしか見えないから、誰もわかりっこない。
 義姉を瀬田に送り届ける途中、ふと気がつくと月が欠け始めていた。今日は月食だったと思って家に帰って朱門に言うと、彼も忘れていた。電灯を消して金環食になるのかと思って眺めていた。しかし金の指輪は見えず、煮えた魚の目みたいなものだった。夜風に流されている下ろし忘れた広告用の気球みたいに見えた瞬間もある。
 ボタ、ついに帰らず。パリ祭の日に鮎を最後に食べて、お盆の日に死を知らせ、月食の晩に天に帰る。野性にしたがって死に場所を見せないとすれば、意外と天晴れなネコだったのかと思いながら、まだ夜の玄関に姿を探していた。
 
七月十七日
 夕方、『戒老録』の舞台について、山田五十鈴さん、淡島千景さんと、帝国ホテルで読売新聞の座談会。大人が自然に心から笑える台詞が随所に出て来るすばらしい舞台の要素は何なのか話し合う。
 
七月十八日
 朝、夫が階下から私をけたたましく呼ぶ。ボタがよれよれになって帰って来たのである。痩せて泥だらけの雑巾という感じ。家の中へ入るなり、汲んでやったバケツの水を飲み続けた。丸四日間くらい、水も飲んでいなかったらしい。とうとう老年性徘徊が始まったか。もともとお粗末なデザインだった「毛皮」は真っ黒になっていて汚いこと臭いこと。途中から水に少しずつ自家製のスープを混ぜてやった。
 八時半、日本財団へ出勤。
 その後で、ボタはお医者さんに連れていかれ、点滴を受けた由。終わったとたん啼き声がニクラシクナッタ、と夫は言う。その前にお湯で洗ってもらった後は震え出し、もうこれでご臨終かと皆が思ったのだそうだが、気力がある猫だ、まだまだ生きますよ、とドクターに褒められたという。
 十時、執行理事会。十一時、評議員会。
 他に小切手のハンコ。決済。新社屋につける電光掲示板についての相談。手紙の返事。九月の南米行きの打ち合わせ。お昼の後、建設省と国土庁に寄って帰宅。執筆。
 



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