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今年も又、恒例になっている障害を持つ方たちとの旅行に出た。今年はポーランドと南フランスの聖地ルルド、それとスペインの西北端、サンチァゴ・デ・コンポステラまでの道を辿ることである。 外国在住の邦人によく言われるのは、日本人が大人でない、ということなのだ。私も耳が痛い話なのだが、大人ということは、心が柔らかく、ユーモアがあり、知的で、本をよく読んでおり、苦しみを人生の一つの姿として受け入れ、それ故に自立していることだという。
たまたまフランスのホテルで、小泉新総理のお顔がテレビに映ったが、いつどういう場合に撮られたのか、右手を「エイ、エイ、オウ」と突き出す例の「景気づけ」の場面と、党の重鎮何人かがいっせいに「複数同時握手」をしている場面だった。「複数同時握手」というのは、外国の政治家たちもやるかどうか知らないのだが、およそ子供じみて愚かしいポーズである。
「エイ、エイ、オウ」に至っては、ハチマキ、タスキと共に、あれだけで私には拒否反応がおきる。誰かからこういうことを言え、こういうポーズをしろ、と命じられると、唯唯諾諾として同じ表現をするなどというのは、それこそ民主主義ではない。専制主義に従う卑屈な行動だろう。
私が子供の時、ドイツでは指導者がいっせいに「ハイル、ヒットラー!」と叫ぶと、軍人も一般人も、「ハイル、ヒットラー!」と叫び返した。ナチスを嫌ったのなら、なぜ戦後も、皆でいっせいに「エィ、エィ、オゥ」をやるのだろう。
もっとも、人と同じことをおうむ返しに言ったりしたりすることを平気にした歴史がある。日本ではいつ頃から流行したのか正確な記憶もないが、写真を撮る時に、子供たちがVサインを出すようになったことである。元はチャーチルが、戦局が悪い時にも国民の士気を鼓舞するために「勝利」を意味するヴィクトリーのV字サインを指で示した。彼が考え出した個性的なジェスチャーだった。
日本の子供たちはあれを「ピース(平和)」という。Pを得るためには、往々にして闘いでVを得なければならない。しかしVを得るには、血を流し愛する者を捧げねばならぬことを、世界の大人たちは知っている。
カメラの前に立てば反射的に、没個性的にVサインをするのは、「はずかしいことです」と教える親も教師も実に少なかった。だから現世の矛盾と苦味を正視する大人たちが育たなかったのだ。
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