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一九九八年五月十一日 朝、三戸浜の家に、東京の三浦朱門から電話。韓国の聖ラザロ村の李庚宰神父が帰天されたことを知らされた。ガンは快方に向かっていたが、心臓が弱っておられた。 私は神父の弟子であった。師に会えたからこの世で幸せであった。二十六年間、常に神父は私にとって大きな大きな存在であった。長い間、ありがとうございました。またお会いいたしましょう。 午後、畑でソラマメの初収穫。今年は茎の先端を十センチほど切ることで、アブラムシの防除に成功したのでなかなかのいいでき。 五月十二日 朝、執行理事会と雑用を済ませて三時近くの新幹線で大阪へ向かう。かなりの降りで路面の光る駅に降り立ち、大阪新聞社の講演会。 五月十三日 今日から関西以西のモーターボート競走場に、ご挨拶に歩く旅行が始まる。日本財団の財源はモーターポート競走の売上の三・三パーセントでまかなわれており、国民の税金は全く入っていない。競走場の方で恩に着せていられるわけでは全くないが、日本財団としては「お金をこういうふうにきちんと使わせて頂いております」と報告する義務がある、というものだ。 ちょうど二年前に私は足を折って、約八カ月は、ほかのことは普通に仕事をこなしていたが、旅行できる場所は限られてしまった。挨拶回りもそれで遅れたのである。しかし今度のこの旅で、東京近郊の二カ所を除く全部の競走場にお礼の訪問を済ませることができる。 朝十時過ぎの列車で徳山へ。午後一時半徳山競走場着。 どこでも大体同じスケジュール。まず競走場内の見学。子供ルームなどある所も多い。子連れで離婚した「クレイマー、クレイマー」お父さんが、せめてもの気晴らしに子連れで競走場へ来ても、子供をここに預けてレースを楽しめるようになっている。 舟券売り場の中の女性たちにも挨拶。どこの売り場でも制服は華やかな色で、皆若やいで見える。定年まで四十年近く働いている人もいる。妻が競走場に勤めていると、妻のお小遣いと一家の食費は大体まかなえる。月に十四日しか出勤しないのだから、家事もそうおろそかにはならない。 私は場内で働く警備員さんたちも好きだ。警察官や自衛官を体験した人たちの視線がどこにでも行き届いているから、暴力沙汰など場内に持ちこみようがない。しかもこの警備員さんはどこか「長年、夫婦喧嘩の仲裁もして来た交番のおまわりさん経験者」という雰囲気もあるから、あったかくていいのである。 うちに一人で年寄りを置いておくと、もしかして誰もいない隙に倒れていやしないかと心配でしようがない。しかし競走場におけば、倒れても転んでも、すぐ周りの人や警備員さんに助けられ、救急室に連れて行ってもらえ、必要なら救急車も呼んでもらえるから、おじいちゃんは競走場にやっておく方が安心、という人もいるのだそうだ。 新下関で降りて、江島潔下関市長と夫人の智子さんにお会いして夕食をご馳走になる。智子さんは聖心女子大学の後輩。若い市長と、仕事を超えた話。後で「閉店間際」の海峡ゆめタワーにも上がって夜景を楽しむ。地方都市が、それぞれに秘術を尽くして、郷里の設計をしているのはすばらしいことだ。日本国家はこうした律義な地方の力で成り立っている。 今日は小倉泊まり。夜ホテルに三浦朱門から電話。三戸浜まで行ってまた「ソラマメ取ってきた」のだそうだ。 五月十四日 朝九時半、芦屋競走場着。芦屋というと関西の芦屋の方が有名だが、こちらは芦屋釜と言ってお茶の釜を昔から作っていて有名な所だという。 競走場で買う私の舟券はすべて当たらず。私の博打の運のなさは「一種の才能ですなあ」と笹川陽平理事長が褒めてくれるほどのものである。 どこでも、集まってくださるマスコミ関係者に日本財団の仕事を説明し、周辺のエピソードや裏話もぐしゃぐしゃ喋る。情報公開というより情報の垂れ流し。新たに投入する研究・治療費の五十万ドルを五十万円と言ったりすると、すぐお目付け役が警告の紙を寄越す。私は謝って訂正し「帳簿は間違っているわけではありません」と説明する。生活が出るのである。 午後は下関競走場を訪問。五時の新幹線で名古屋へ。 五月十五日 近鉄で津へ。津競走場を訪問。晴れて快い日。 津から四日市へ廻って講演会。再び名古屋経由、広島へ戻る。競走の開催に合わせて動くと、新幹線で右往左往することになる。名古屋の駅前ホテルで大学時代の友人たちと再会、会食。 五月十六日 ひさしぶりの強い雨。宮島競走場からは普通なら厳島神社が絵のように見えるというが、今日はひたすら煙って墨絵の世界。しかし私が千円買って七千二百円の配当。友人の金尾アツ子さんは、初体験、二百円の投資で三万一千円あまりの大穴を当てる。 少し疲れて新幹線が広島を出たとたんに眠り、岡山でぱっと起きて初めて列車で四国へ渡った。濛々と煙る雨の中、突然現れる四国側の石油コンビナートの光景にも心躍る。
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