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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 教育基本法について  
コラム名: 教育改革国民会議?第1分科会?提出レポート   
出版物名: レポート  
出版社名:  
発行日: 2000/06/15  
※この記事は、著者の許諾を得て転載したものです。
無断で複製、翻案、送信、頒布するなどの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   教育改革国民会議/第一分科会?人間性?の第1回(2000/05/25)分科会で提出が求められた「教育基本法」に関するレポート(同会議担当室へ2000/06/15に提出済)。
 
<参考>
教育改革国民会議
趣旨:21世紀の日本を担う創造性の高い人材の育成を目指し、教育の基本に遡って幅広く今後の教育のあり方について検討するため、 内閣総理大臣が有識者の参集を求め、教育改革国民会議を開催することとする。
 
 
曾野 綾子
(日本財団会長、作家)
 
 大東亜戦争の被害が人命の犠牲を強いたとすれば、戦後の教育の荒廃は、精神から人間性を奪ったという点で、それにも劣らぬ大きい被害を与えました。
 その原因は、長い年月、民主主義の名を借りた安易な「自由放任」の姿勢にありました。民主主義は、51パーセントの賛成の前には、49パーセントが、自分の意志が通らないことに苦しむことを基本的な形にしています。しかしいつのまにか社会は、この原則と痛みを忘れて、「一人でも反対があったら橋を架けない」「一人の落伍者も出さない」という形の全体主義を採用しました。これは偽の民主主義とも言うべきものでありましょう。
 言うまでもありませんが、反対者の心や落伍者の不安を放置しておけ、というのではありません。しかし平等というのは、誰にも不幸がないことではなく、誰もが同じ学力を持つことでもありません。誰もが不幸に耐える力を持ち、誰もが、その子供の資質にあった教育の方途を与えられることです。
 しかし、親、教師、社会、その多くは、相手から嫌われるのを恐れるあまり、易々として子供の身勝手な要求に迎合しました。それは、決して民主主義的な姿勢ではなく、ただ自分が若い世代から嫌われまいとする、卑屈な求愛の精神から出たものと私は考えています。
 子供だけではありません。社会は多くの嘘を、決して正視しようとはしませんでした。その幾つかの例をあげましょう。「1人の人間の命は地球よりも重い」と言う言葉は非常にもてはやされましたが、それは全く事実に反したものです。私たちは誰もが、1人の死者も出さないようにあらゆる部門で努力しています。しかし9人の命を救うために1人の命を犠牲にしなければならない状況がしばしば起こることはよくあるのです。ですから1人の命は9人より軽いと見るのが正確でしょう。だからと言って、人間の生死を数で割り切れるものではありません。私が生涯携わって来た文学もまさにその点を衝くことを使命としてきました。
 一方そう言っておきながら、一部の女性たちは「生む生まないは女の自由よ」と言い、その言葉もかなりもてはやされました。それは避妊を認めよということだけではなく、中絶の自由をも認めよということでありました。もし「1人の人間の命は地球より重い」なら胎児の命も同じでしょう。妊娠22週目位までならさまざまな理由をつけて中絶も合法的にできる、というのは、欲しくない子供の命を中絶するのは、時期さえ誤らなければ殺人にならないということです。その期間をほんの20週間ほど過ぎて出産し、殺して遺体をコインロッカーに放置すると、殺人に問われる。犯罪者になる。どうしてそうなのか、ハイティーンにも、私にも理解できない問題です。たいていの胎児の生命は、6、7週まで育って中絶しなければ、90パーセントまではすくすくと育ち、確実に一つの人生を味わうことが可能なのですから。
 ここには論理の矛盾が、公然と放置されています。私をも含め何千万という人がこの論理を見聞きしましたが、おかしいとも非人道そのものだとも言わず、それを是正する運動を起こさなかったのは、恐ろしいことです。
 何であろうと筋を通さねば、教育などできるわけはありません。生命を絶てば、それは殺人だということは明瞭です。しかし私は中絶しなければならなくなった人を非難しているのではありません。小説家ですから、むしろ子供をあきらめねばならなかった多くの人たちのそれぞれの理由を想像し、深く共感し、共に悲しみ、結婚はできなくても一人の女性が子供を生んで育てることのできる制度と人間的な状況とを作らねばならない、としみじみ思いました。しかしそれと「女の自由」を楯に、中絶するのは何でもないこと、むしろ進歩的な発想だというのは違います。理由は簡単です。性行為なしに子供は生まれないのですから。(マリアがイエスを処女懐胎した、という話以外には……)
 むしろ人間は、誰でもたやすく殺人を犯す可能性を持つのだ、ということを自覚することが人間になることでしょう。合法的な中絶という制度を作って、自分はあくまで平和的で進歩的な人間であり、決して人を殺す側には廻らないのだ、と簡単に思えることの虚偽性の方がはるかに恐ろしい結果を生むと思います。
  
 信念も勇気も戦後の日本では価値を失っておりましたし、個人の責任において他と異なった判断をすることを、人道や正義に反するという名の下に弾圧しました。その先端を切ったのが、過去には、中国のことなら一切批判しないという態度を貫いた新聞(1紙と1通信社だけは違いましたが)報道の偏向、今なお差別語狩りに異常なまでに狂奔するあまり、歴然と言論の自由弾圧を行っているマスコミの責任はまことに大きいものです。彼らは大東亜戦争の時、戦意高揚に大きく働いたにもかかわらず、何の自己批判もなく、今また同じ精神の構図を見せています。しかし私はマスコミだけを批判しているのではありません。真実から遠いことを、政治家も、教師も、親も、そしてマスコミも、平然と言い続けたのであります。
 ほんの一例ですが、政治家も公務員も「国民の皆さんが安心して暮らせる社会」などというものを約束して平気でした。今回の選挙でも津々浦々で、立候補者がこの手の見え透いた嘘の表現をつき続けていることでしょう。しかし現世には、安心して暮らせる場所も時間もどこにもありません。そういうものをあると信じ、要求し、約束する人々の精神からは、真の教育は生まれるわけがありません。
 マスコミと同じように教育者たちもまた多くの嘘を排除しませんでした。その一つは、人間が平等であるという理想を現実と混同したことです。もちろん私たちは、誰もが、同じ程度に衣食も足り、最低限人間らしい家に住み、教育と医療を受けられ、思想、信仰、表現、移動の自由を保証され、職業と結婚の選択の可能な社会を望むことに変わりはありません。しかし世界の現実は、そのような理想とは、はるかにかけ離れた状況にあります。
 全地球上の人口の約3分の1が未だに電気の恩恵を受けていない、と言われていますが、電気と民主主義とは不可分の関係にあります。電気のないところでは、民主主義は成立しません。誰かの政治的理念を、同等に、正確に、素早く、住民が聞く手段がないからです。また選挙を素早く集計する方法もありません。したがってそのような土地では、今でも族長支配的な政治形態を採ることになります。
 平和というものは、一部の限られた先進国の間でのみ可能な観念で、日本人は簡単に平和を口にし、「皆が平和を望めば平和になる」などと大人でさえ信じていますが、アフリカの国の中には部族抗争が続き、もう数10年間、平和というものを見たことがない、という人たちもたくさんいるのです。平和を見たことがないのですから、平和とはいかなるものかを想像することもできません。しかもそういう人たちの平均寿命が20歳代の後半か或いは30歳代で、それ以上生きることは僥倖という国があるという衝撃的な事実は、つい先頃発表された統計で明らかになりました。
 国家も、社会も、個人も、決して平等ではありません。才能にも健康にも生まれた環境にも明らかな不平等があります。不平等どころか、片方は人間で、片方は動物、という階級差が存在する国に、私は度々行きました。不平不満は地球が存在する限り続くでしょう。その認識から出発しない限り、人間の平等に向かって一歩一歩進むということはできないことです。この一言も、教師や親は言わずにごまかして来ました。
  
 しかし人間の英知と、健やかな心と、共生による人生の諸相の発見は、この上なく面白いものですから、私たちは「あいつは変わっているけどおもしろい」とか「鈍感だから病気をしないんですなあ」とか「とにかくあの人は優しいんですよ」とかいう具合に、その違いや否定的な要素の中に、言葉を変えて言えば「よさの中にも悪さの中に」も等しく偉大な人間的意味を見つけることが可能なはずでした。
 しかし人々は次第に、自分の評価でものを見る力を失い、ランクづけ、分類化、平均化といった政治的視線を、個人の生活の目標とするようになりました。
 学歴主義も、安全な職場志向も、ブランドものという名の大量生産品を夢中でほしがる若い人々のファッション性も、つまりは自分自身の評価を失い、評価を大衆の眼に合わせようとした結果です。本来ならば、人間はいかなる状況の中でも、自分が生涯を賭けた好み、自分がそこにおかれた意味を発見できるはずなのです。それを可能にするのは、他人とは違った判断をする勇気そのものです。しかしそのような勇気も才能も習性も、教育は教えませんでした。
 皮肉なことに、禁止こそが、自分の情熱や、時には命までも賭けて手にしたいと願う道の発見につながるのですが、戦後の教育は時には道徳に反することまで許しましたから、若者たちは、心身の飽食と放縦の中で、みずからの責任において選ぶことの方途も意味も見失ったのです。足りない時にこそ、人はどうしても手に入れたいものを明確に発見するものです。
  
 そもそも教育は誰が行うかという点に注目しましょう。「教師は労働者である」と自ら宣言するような教師などに、教育ができるわけはありません。その時点で自ら思考する能力のある教師たちは、自分の使命と尊厳にかけて反対する戦いを始めるべきでした。
 過去にこだわるのはやめにしますと、小学校5、6年生に自我のできかける年ごろ以上の年齢の子供には、教育の責任は次のような比率である、と教えるべきでしょう。
 50パーセント 当人。
 25パーセント 親。
 12.5パーセント 教師。
 12.5パーセント 周辺の一般社会。  つまり「自らの教育を他人任せにするな」ということです。
 それより幼い年頃の子供に対する教育の責任は、
 50パーセント 親。
 25パーセント 教師。
 25パーセント その子の身の回りの社会。
 と私は考えています。
 いつの社会でも、どの時代でも、内外のさまざまな理由が、子供の人生に介入します。人のせいにしていれば、望ましい要素でさえその子を傷つける理由になります。
 実に教育を骨抜きにしたのは、皮肉にも戦後日本の幸運と政治の成功にありました。現在の日本に、望ましくない要素が多くあることは事実です。それにもかかわらず日本は今なお、世界で「夢のお国」です。
 1) 清潔な水が飲める。
 2) 餓死するような人も、乞食も、行き倒れも(例外的にしか)いない。つまり社会保障の制度がある。
 3) 医療は誰にでも比較的すみやかに受けられる。
 4) 弱者の悪口は言えないが、強者の悪口は言える。
 5) ほとんどの人が雨の漏らない、電気、水道、暖房、浴室、炊事場などが屋内にある家に住み、テレビや電話などを使える。
 6) 行きたいところに行くことができ、親の出身が何であろうと、子供は自分の才能次第で、いかなる職や地位に就くこともできる。
 7) 誰もが税金を納めている。
 8) すべての不正な人は、(地位や財力に関係なく)罰される。
 9) 誰もが教育を受けられる。
 10) 条件をやかましく言わなければ、働くところがある。
 11) 血を流すような内乱や部族の抗争がない。
 もちろん時々の例外がありますが、今までに108カ国を歩いた私の、それが実感です。
 それにもかかわらず、日本は悪い国だ、という人がいて、殊にマスコミがそうした空気を後押ししました。私たちはもっと子供たちに厳しい現実を教えるべきでありました。
  
 今までの日本の文化の姿勢は、受けることを要求することにありました。しかし人間の生活でもすべてのものが、還流する時、健全な様相を見せます。食事の摂取と排泄、呼吸においては呼気と吸気、睡眠・休息と勉学・労働、貯蓄と消費、日常性と冒険、喜びと悲しみ、成功と挫折。すべてこうした対立的な状況を過不足なく与えられることによって生はなりたち、完成し、人間性は豊かな厚みを帯びます。長寿がめでたいのは、人間が幼児期と青年期と老年期と、それぞれに違った制約や才能を持つ3つの時期を全て体験できるからです。
 私たちはそれらのどの瞬間においても、自由に心の余裕を持ってその状況を正視しつつ運命を受け止め、自分を生かし続けるようになりたい、教育はその目的に向かって力を貸すものだと思っています。つまり人間は順境においても逆境においても、富においても貧困においても強くなければなりません。またそのどちらの状況にもとらわれない自由な精神を持たねばなりません。しかし日本においては、順境や富にしか、教育の意味を見いださない親と子をつくってきました。
  
 日本の教育は、半分を欠落させていました。
 子供たちは、飢えも不潔も、貧困も運命に放置されることも、決定的な暑さも寒さも、知らなくなりました。
 危険はあらかじめ取り除くように処置するのは当然ですが、それでもなお、危険がなくなるということは現世ではあり得ないのですから、危険を予測する本能、危険を避ける方法を知ることは、生きるために必要です。
 ナイフで人を刺す子供が出ると、ナイフを学校に持って来ないような規則を作ればいいというほどに、日本人は安易で姑息な考えに陥りました。しかし今なお地球上の多くの地域で、男たちはナイフなしに生きることは考えられません。それらは枝を切り、布や皮を割き、動物の肉を分けるために必要なものであり、結果的には人間の生命を支える不可欠な道具でした。日本のようにナイフは生命を絶つものだ、という考えは、まことに偏頗で、ナイフこそ生きるために必ず携えなければならない道具だということを、日本人は全く考えられなかったのです。
 毎年、1,600万人以上もの人たちが海外へでかけて行くというのに、こうした生活の原型は、あまり学ばれず、したがって子供たちに伝えられることもありませんでした。
 外国に行けば、途方もない思考の違いに悩みます。アフリカの多くの土地では、私たち外国人は「悪魔の眼」を持っていると信じられています。私たちが違うと言っても彼らの文化が、長いことそう信じて来たのです。
 言葉も通じず、文化の一致点もない土地で、しばしば握手さえも淫らと思われ、微笑さえ(悪魔の眼で)見つめられることとして恐れる人々がいる中で、たった一つ私たちがそれらの因習と関係なく示せる意志表示があるとすれば、それは相手国の国旗国歌に対して起立して敬意を表するということなのですが、それさえも多くの教師たちは理解しませんでした。
 日の丸は血塗られた旗だと、私は聞かされましたが、大東亜戦争の犠牲者は多く見積もっても300万人前後でしょう。しかし戦後の日本では、実数をつかむことは非常にむずかしいことですが、産婦人科の医師の中で、中絶数を1億と見なす人もいます。実に大東亜戦争の33回分の殺人が、行われたのです。戦争は自分が殺されるか、相手を殺すかの切羽詰まった状況でおこなわれますが、中絶は一方的です。声を挙げて助けも求められず、デモもできず、反対運動の署名もできない、文字通り一番弱者である胎児を一方的に始末するのですから、これほどの残虐な行為はないでしょう。日の丸が血塗られた旗とすれば、その血の量は、比べものにならないほど戦後の中絶の血によって血塗られています。それが、現代の常識でありました。基本と論理を通さなければ、教育などできるわけがありません。
  
 試験管ベビーというものがあるとすれば、戦後の教育を受けた子供たちは、ガラス箱に保護された子供になったというべきでしょう。外気も当たらず不快な雑音も聞こえず、食べ物は間違いなく与えられ、危険も入っては来ない生活をよしとされたのです。
 健全な生活というものは先に述べたように、受動的(passive)に与えられるものと、能動的(active)に与えるものとが、拮抗していなければなりません。
 また現実の生活と、観念の世界とが、過不足なく入ってくるのが当然です。しかし親も教師も、テレビやコンピューターなどによって与えられるヴァーチャル・リアリティー(仮想的な環境から受ける感覚の擬似的体験)に過度の理解をしましました。こうしたものは、年齢、その他の研究などの明確な目的や必要性を持つもの以外、発達途中の子供たちにはかなり有害なものだ、という一言も怖くて言えなかったように見えます。
 どんな悲惨な恐怖も、テレビの画面からはこちらに入ってきません。飢えも戦いも文字通り「絵空事」です。ペットを飼うことは能動的な行為でそれゆえに意味があるのは、ペットは餌を食べ排泄をするからです。そこにこちらが関わらねばならないという絶対の義務的領域が発生します。しかしロボットのペットは、餌も要らず排泄もせず、電池を切れば、忘れていられます。そのような関係が、どれほど身勝手で安易な考えを子供の心に植えつけるものか、私たちは考えなければなりません。それゆえ、ヴァーチャル・リアリティーは多くの場合有害です。
 ヴァーチャル・リアリティーは他者の存在も希薄にしました。現実に存在するのは自分一人なのですから、自分だけがよければいいのです。ホームレスは公共の公園や駅に寝泊まりし、学生は万引きを遊びと感じ、欲望のためには「援助交際」をしました。
 日本の若者たちはこのようにして架空世界を信じ、現実の世界では身勝手に生きるようになりました。
 現代国語などという時間は要りません。その代わり、徹底して、書き取りを学ばせ、哲学と古典を教科にいれるべきでしょう。そしてできれば、それぞれの自分の宗教を学ぶ時間を作って当然と思います。
 
 この会議に出るようになってから、私は、多くの教育に実際に携わっておられる方々が、すでに日本の教育は手を施すすべもない危篤状態に陥っている、と思っていることを知りました。私は、重病くらいに思っていたのですが、「そろそろ親戚の方々をお呼びになった方がいいと思います」という段階だそうです。
 しかし私は希望を失ってはいません。日本の子供たちの悲劇は、能力があるのに、それを使われていないことです。それは、教育を司る官僚、教師、親に、勇気がないために危険を冒すことを恐れ、失敗した時の責任ばかり考えて何もしないからです。
 こうした現状を考えて、私は、それを打破する一つの具体的な方法を提唱します。
 抽象的な勉学と、人間が生存するための行為とは、どちらも2個の車輪のように等しく行われなければなりません。
 最終的には、満18歳ですべての国民に、1年ないしは2年の奉仕期間を設定し、動員することです。明確にしておきますが、これは兵役ではありません。軍事的行動や技術は全く教えません。これは文字通り、それまで社会、親などから受けて来た恩恵を、いささかでも、社会に還元するという自然な人間的行為です。
 しかしいきなりその段階に行くといささか無理があるでしょう。ですから次の段階で行うことが可能であると思われます。
1) 小学校、中学校は、毎年9月初めから、約2週間、学校の必修として、各地に分散して設営された簡素な宿舎で、共同生活をし、おのおのその年齢に合った肉体労働をする。
2) 高校生は、大学受験が終わり、就職先も決定した3月末から最低1ヵ月、できれば2ヵ月間動員する。既に社会で働いている、同年齢もこれに合流する。国有林の下草刈り、農作業の手伝い、老人介護、など、健康状態や体力の差に応じて、奉仕活動に従事させる。男女の差はない。身体障害者も同じように動員し、できる仕事をさせる。
3) 各地方に分散して、受け入れのための質素な建物は作るが、大部屋、トイレ、簡単な暖房、シャワーぐらいは用意するが、徹底して、共同生活に馴れさせ、肉体労働に従事させる。これらの動員の補助的指導と訓練には、海外青年協力隊員、警察、自衛隊、海外駐在員などのOBや、シルバーボランティアを当たらせる。
4) このための時間と費用を捻出するため、既に時代遅れの感のある修学旅行制度は廃止する。
5) 関係各省庁が挙げて協力し、必要な予算をつける。
   なお、1年ないしは2年間の奉仕活動を設定すれば、老人介護などの問題はほぼ解消するものと思われます。
 
 教育を改革するための多くの試案は、今までにも度々出されたと思います。しかしそれが実現されなかった理由は、制度の変化を嫌う怠惰な精神、新しいことを試みることへの関係者の臆病、事故が起きた時自分が責任を取らされまいとする卑怯さにあったと思います。
 今回の教育改革に当たって提出される多くの問題が、再び、怠惰、臆病、卑怯、によって回避されたり拒否されるならば、私たちはそれを明らかにしなければなりませんし、その経緯を国民に告げる義務もあるでしょう。
  
 教育基本法は、数カ所に曖昧な点が残されており、厳密に再検討を要するものと思われます。
 



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