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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: いい話?太っていたから生き延びた  
コラム名: 自分の顔相手の顔 92  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1997/10/27  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   少し前、数紙の新聞が、非常に興味のある漂流の話を報じた。
 ウラジミール・メドベージェフさん(四四)と息子のマキシム・メドベージェフさん(一四)は、一九九五年八月、ヨットで世界一周を目指してロシアを出港した。今年四月二十七日には、無事に南アフリカのケープタウンを出港するところまで漕ぎつけた。しかしその後間もなくインド洋で、ヨットは岩に衝突して破損し、燃料、食糧、通信設備をすべて失ってしまった。
 彼らはそれから六カ月洋上を漂流し、南タイのリゾート地として知られるプーケットの漁民に救助された。
 二人が行方知れずになった時、「お父さんが無理に連れて行くと言うから、マキシムも死んでしまったかもしれない」と怒っていたかもしれない奥さんも、これでもう嬉しさの余り、文句を言う気力もなくなっただろう、などと小説家は余計な想像をする。
 しかしそれよりも、この事件以来画期的に変わった印象がある。
 この父親の方は、世界一周旅行に出る前は百六キロも体重があった。しかし発見された時には、五十三キロになっていたというから、正味半分の体重に減っていたのである。息子は六十八キロあった体重が五十四キロまで痩せていた。これを見てもわかるように、父親は息子を庇って、できるだけの食べ物を与えていたのである。
 二人は雨水を飲み、魚を取って食べていた。雨が降る季節にそのような海域にいたことはほんとうに幸運だったと思う。それに濡れても、どうにか寒くない気温だったのだ。
 しかしそれより感嘆すべきは、この父は五十キロ以上もの予備の肉をつけていて、それがこういう場合、「食いつぶして行っても」実に長い間体力として大きな力になったということだ。
 今、世間では太ってはいけない、ということばかりが言われている。確かに適切な体重というものはあり、それを超えると膝が痛んだり、他の病気を併発したりする。
 しかし人間の人生は、それほど甘くない。平穏な毎日が続くとは限らない。手術を受けて、数週間食べられないこともある。山で食べ物がなくなることもある。人間の肉体も精神も、常に少しは余力があることはいいことなのだろう。
 もちろん一方で、世界中から肥満が追放されるべきだということは言える。体に悪いほど食べるということほど、おろかしいことはないのだが、どの国民も、少し経済的に豊かになると、すぐ肥満するほど食べ、食料をうんと棄てている。その一方で常に最低限必要とする食事さえない飢えている人が、地球上のどこかにはいるのだから、このアンバランスをなくす運動はすぐ始めてもいいのである。
 しかし太っていたから生き延びたという素朴な結末も今どきにしてはいい話である。
 



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