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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ちょぼちょぼやればいいのだ  
コラム名: 昼寝するお化け 第108回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 1996/06/14  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私が今働いている日本財団というところは、モーターボート競走の収益金の中から三・三パーセントを受けて、研究調査や公益福祉の仕事に使うという仕事をしているので、私は機会を見つけては、全国で二十四ある競艇場を訪問しているのだが、最近尼崎で、関係者から実に人間的ないい話を聞いた。
 阪神・淡路大震災の後、もちろんポートレースはしぱらく開かれなかった。競艇場が地震で大きな被害を受けたという話は聞いていないが、職員の中には当然被災者も多く出たであろうし、何よりも、亡くなった方たちのことを考えると、賭をして遊んでいる場合か、という気分もあったろう。
 しかしポートレースの収益金が大きく支えているのは、地方自治体の財政である。尼崎市の財政で使えるのは恐らく五十億円近くだろう。その地方が地震の被害を受けたとすれば、ますますその資金は大切なものになって来るはずである。
 それに、もう一つ微妙で大切なことがあった。人々の心である。死者に対する哀悼の気持ちに徹して、長く休場していれば、一見文句の言われようはない。しかしあの地震の後、私は別の人からも、早く競馬場を開いてほしい、という声を聞いたことがある。
 その人はボートには行かないが、競馬にささやかな楽しみを見いだしていた。しかし競馬場には被災者が入り、その上、馬場の地盤にも凹凸ができて、繊細な足まわりのサラブレッドが走れる状態ではなくなった。それらのことはすぺてわかっているが、被災地の人の心の中には、鬱積したやりきれない空気を、やはり何かで開放したい、という矛盾した気分がある。
 よくある心理なのだが、あまり「大変ですね」と部外者から言われると、そんなことはないですよ、こっちは普通に暮らしてるんだから、と言いたくなり、地震の影響を全く考えない話し方をされると、この大きな天災の影響をわかっていないのか、と不快感を持つ。
 そのような考慮と苦慮の後に、ボートレースは再開された。しかしいつから始めても、その時期の選択はほとんど称賛の言葉を受けるものにはならず、主に非難の対象になるものだったろう。身近に死者や被災者がいれば、「ポートなんかやる場合か」になり、そうでなければ「もっと早くやりゃいいんだ」になる。
 私はしかしこういう場合の苦慮や迷いこそ最も人間的なものだ、という感じがする。どっちにしても誰からも褒められない行為で、しかし建設的な意味を持つという行動は、まさに文学の世界で扱うべき男性的なテーマである。
 平成七年度には、競走の施行者、モーターボート競走会、日本財団などから五十一億円が阪神・淡路大震災の復旧に拠出されることになったが、日本財団関係だけで言うと、地震の翌日に三億円を兵庫県に出し、一月三十一日・にはアジア医師連絡協議会に五百万円を拠出することを決定している。こういう場合、早ければ早いほど、お金は効果を生むのである。
 今度新たに、阪神・淡路大震災コミュニティ基金というものが設立されて、五月二十七日にその発表会があった。五十一億円のうちの八億円を『震災によるさまざまな問題を、ボランティアを初めとする市民の自発的な活動によって解決することを支援する」ことに使う任意団体の発足をお披露目するものであった。これは財団でもなく、利子だけを使うのではなく、基金全体を大体三年間で使い切って解散することを目的としている。
 その基本理念には、実は日本財団がひそかに財団の中で宝もののようにしているフィランソロピー(人間愛)の理念を「お貸し」した。これは財団の顧問である林雄二郎氏が、簡潔な文章で示されたもので、私は新聞記者たちにも配っているのだが、さらにその精神を抜粋して次の七カ条にしたのである。
一、あまねく平等にではなく、優先順位をもって深くきめ細かに対応すること。
二、前例にこだわることなく、新たな創造に取り組むこと。
三、失敗を恐れず、速やかに行動すること。
四、社会に対し常にオープンで透明であること。
五、絶えず自らを評価し、自らを教育すること。
六、新しい変化の兆しをいち早く見つけ、対応すること。
七、世界中に良い人脈を開拓すること。
 これは、一口に言うと、役所と反対のことをやれ、ということになるかも知れない。平等なんか大義名分にするな。前例ばかり気にするな。「慎重に審議いたして」なんかいうな。失敗も隠すな。時代と共に柔軟に変化せよ、とつまりそういうことになる。

 車の車輪に例える官民機能
 コミュニティ基金の発表会に集まった新聞記者の中から果して、「優先順位をどうして決めますか」という質問が出た。これは世間的に言うとむずかしい質問だが、私にはそれほどむずかしいものではなかった。
 私は自分でも小さなNG0のグループ、海外邦人宣教者活動援助後援会という会に属して、約二十五年間途上国の援助をすることになってしまったが、私はいつも「出会った(目に止まった)ケースの中から、自分(運営委員)が一番重大だと思われるもの」に対して気楽に出して来たのである。平等を考えていて二人共救えなかったというより、私は目についた方から一人でも助ければいいと考えることにして来た。そうでないと、たとえばアフリカ全体を平等に救えるまでは、援助活動をしてはいけないことになる。
 この「社是」ならぬ「団是」とは全く対照的だから、役所のやり方がいけない、とも私は考えたことがない。役所には役所の任務がある。公平平等に、熟慮して決め、前例を重んじ、という伝来の方法である。しかし車は、重いものを載せる時ほど、普通は一輪では走れないのも事実である。車の両輪に例えられる官と民の機能は、むしろ対立的であるべきだ、とさえ思う。つまり補完性を持つ思想と機能の二輪があってこそ、それは相互の民主的な独立性を保つことになり、強力で有効な働きをすることになるからである。
 すべての仕事は眼についたところからちょぼちょぼやればいいのだ。そして未完で終わればいいのだ、と私は密かに思っている。神のごとき公平な判断とか、すべての仕事を完璧にやりおえて死ぬことなど、私たち人間にはできることではない。アフリカ全体を救え、というような言い方は、今ではむしろ破壊的な嫌がらせであり、素朴な善意の敵だろう、と私は思っている。私にとって平等という言葉に対する憧れは、皆無ではないが、かなり希薄なものだ、ということがこのごろ次第にわかって来た。 
 



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