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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 十五年目の旅  
コラム名: 私日記 連載57  
出版物名: サンデー毎日  
出版社名: 毎日新聞社出版局  
発行日: 1998/05/10・17  
※この記事は、著者と毎日新聞社出版局の許諾を得て転載したものです。
毎日新聞社出版局に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど毎日新聞社出版局の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   一九九八年四月十五日
 第十五回目の障害者との外国旅行。毎年一度ずつ、初めは、視力障害者との旅、ということでスタートした。私自身が生まれつきの近視で、ヨーロッパに行っても、教会の天井ドームの絵などほとんど見えなかった。
 四十九歳で受けた白内障の手術の結果、強度近視だったことが幸いして、眼内レンズを入れることもなく、遠くがよく見えるようになった。強度近視の手術の結果としては八万人に一人の幸運だという。何とかご恩返しをしたいと思って始めたのが、この巡礼の旅である。初めは視力障害者だけだったのが、最近は身体障害者もふえて、今年は車椅子六台、視力障害者六人、ガンの病後の方も数人。指導司祭の板谷豊光神父自身が甲状腺ガンで、一時はもう旅行にも来られないか、と思っておられた。最高年齢は八十四歳。去年は九十六歳だったことを思えば今年など若いものである。日本財団からも男性二人、女性一人。全国モーターボート競走会連合会からも一人。ジーパン姿だと普通の若者としか見えない神父が二人。
 柳沼さんは、大学を出た年に多発性硬化症を発病。今年四十六歳になった。一昨年初めて車椅子で参加し、一緒にベドウィンの黒山羊のテントで夜営した。視力もかなり弱くなっている筈だが、それでも柳沼さんは砂漠の星が見えた、と言ってくれた。
 ロンドンまで約十四時間。それからエジプトまで、約三時間半。乗り換え時間が一時間半ほどあって少し歩けるとはいえ、私が八十代になってこういう旅行ができるかどうか。多分しなくなっているような気がする。
 予定通り午後十時半カイロ着。オレンジ色のナトリウム燈の中を、古い墓地が続く地域をぬける。墓と言っても小さな家のような一族の墓で、そこにその墓の持ち主とは全く無縁の貧しい人が住み着いている。異質な文化を肌で感じるにはまことにいい導入部である。
 四月十六日
 朝、クリスチャンが住んでいた地区を見る。聖家族がエジプトヘ逃げて来て住んだというのも、この一部だという。聖家族も当時はユダヤ教徒だったわけだから、今でも一部にユダヤ教のシナゴーグ(会堂)もあり、一種の城塞のような地区である。
 修道院であれ、入植者のかたまって住む地区であれ、宿屋であれ、とにかく壁を築き、外敵を完全に閉めだすことが生きるための必要条件であった。その世界的な常識が日本では通用しない。
「年輪ピック」という催しが日本であった時、見物や出場の外国人客が、日本で軍隊の姿が見えないので、「こんなことでこの催しの期間中、私たちは安全に守ってもらえるのでしょうか」と尋ねたことがあったという。
 エジプトは今、観光地はどこも警察だらけ。ルクソール事件以来の、エジプトのテロリストたちに対する決意という感じがする。観光客を乗せた大型バスにも必ず私服が一人入口の席に陣取り、町角に止まると後続の警察の車から下り立った警官たちが、バスを背に自動小銃を構える。私たちはむしろいい時に来たのだろう。旅行に最適なのは戒厳令が出ている時である。
 エジプト博物館では、片隅でおもしろいレリーフを見つけた。乳をしぼられている牝牛の脚に仔牛がしばりつけられている。人間が乳を飲んでしまうので、牝牛は仔牛に乳もやれない。それで牝牛の眼からは、一滴の涙が流れている。その傍で貴族階級の美女が侍女に髪を結わせながらお化粧をしている。
 午後は失礼して宿に帰って原稿書き。
 四月十七日
 一日、アレキサンドリアヘ。ファルスの燈台があったと言われる城跡に立って風に吹かれる。
 祖父の書いた旧約の『シラ書』を、当時すでにヘブライ語を読めなくなっていたユダヤ人たちのためにギリシア語に訳した孫の住んでいた地区はどのあたりだったのか。
 今のアレキサンドリアは、かつては華麗だったろうと思われる建物の外壁は剥げ落ち、レースのような手すりは錆びてはずれている。海岸のレストランはファイサル国王もお見えになったといばっているが、エジプト風のパンは冷たくて固い。
 日本人のガイドさんは、海岸に水着姿の美女を期待して来てみると、服を着たままの太った女性たちがずらりと寝ていました、と少し残念そう。イスラムの掟のあるエジプトではミニスカートも見たことがないそうだ。
 四月十八日
 シナイ山へ向かってスエズ運河を地下トンネルで抜ける。モーゼが出エジプトをしたルートを取るのである。
 紅海は少しも赤くない。
 昔からこの海は葦の海と呼ばれた。葦はREEDである。それを誰かが一字落として伝え、それでRED SEA 紅海となった。つまり英語を話す国の誰かの、誤記によってこういう名前になったという。私のようなソコツ者は、どこにでもいるものだ。
 夜になって、シナイ山の麓の宿営の野に建てられたホテルに着いた。
 



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