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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 復讐の情熱?謝るだけで済まないときは  
コラム名: 自分の顔相手の顔 346  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2000/06/21  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   このごろ巷には仇討ちの気風がないでもないのだ、という。
 犯人が十七歳なら決して死刑にならず、恩赦や刑期の短縮もない終身刑も望めない。裁判は遅い。一方マスコミの一部も暴力化して、取材もせず証據もなく、人の迷惑など全く考えもせずにでたらめを書き放題である。
 もうこうなったら西部劇のジョン・ウェインか、シュワちゃん主演のめちゃくちゃ警官の出番だということなのだろう。現実に、妻や子を殺された夫は、瞬間的に私刑を目論んでも異常ではない。
 私はキリスト教徒で、ほんとうは許し以外のことを考えてはいけないのだが、簡単にそうにはいかない。平和を叫ぶ人でも、報復は正義の範囲だと考えていることに眼をつぶったら、あまりにも安易な信仰と言わねばならないだろう。
 人がもし過失ででも事故を起こしたら、それを償うには、謝るのは当然だが、謝っただけで済むものではない。当然金銭的な補償をすることになっている。
 補償はハンムラビ法典の時代から「目には目を」という形で行われて来た。同害復讐法と言われるもので、これは「目をやられたら、ぜひとも相手の目をつぶせ」と勧めることではなく、「目をやられて怒りのあまり、目だけではなく、相手の鼻まで削らないように」という形で復讐を限定するものであった。
 しかし相手の目を取っておいて、自分が復讐として片目を取られるのは嫌だ、という場合、人間はお金でそれを償うことを考えた。いわゆる補償である。
 もちろんお金をもらっても、失った視力は元へ戻らないし、家族の命も返らない。しかしそれより他に、「遺憾の意」(私はこの言葉が嫌いだが)は表しようがないのだ。
 古いユダヤでは、相手から平手で殴られた場合の慰謝料は二百デナリと決まっていた。手の甲で打たれた場合は相手が万座の中で侮蔑を示したわけだから、補償も跳ね上がって四百デナリになった。一デナリは、労働者の一日分の賃金だから、その補償の高さは驚くべきものである。しかしいずれにせよ「目には目を」という報復の情熱がなかったら、補償という思想も生まれないのである。
 やはり先日、ナショナリズムというものの話も出た。最近の教育の混乱は、自分が日本に帰属していることを意識しないところから出た、ということだった。そういう認識は、進歩的な人々の攻撃目標とするところだろう。
 私はキリスト教の学校で、欧米人のシスターに教育された。「インターナショナル(国際的)になるには、まず、その国のよいナショナル(国民)になれ」と私は教わった。その後、私はアフリカや中近東の国をたくさん見た。どんな国家であろうと、人はどこかの国家に帰属しなければ生きていけない。「ナショナリズムとは、それなしでは誰も食っていけないものだ」と最近では思っている。
 



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