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一九九八年五月二日 今日でヨーロッパのすべての仕事は終わり。ほっとして朝六時、人気のないパレルモ(シシリー島)のホテルでチェック・アウトをしていると、突然、背後に絶叫が聞こえ、一人の痩せた背の高い男が、私の隣に立っていた日本財団の海野光行さんに猛烈な勢いで襲いかかった。海野さんは飛ばされ倒れたように見えたが、私は彼が凶器を持っていないことだけは見ていた。 ほかにも伊藤国際部長や私の友人二人がいた。男が次の攻撃に出る前に何とかそれを防がなければならないというのが私の考えの全てだった。 狂人と犬とデモ隊の前では、決して走ってはならない。些細な刺激で、彼らは次の破壊的な攻撃に出るからだ。 私はのろのろと近くにいた人に「カウンターの中に入りましょう」と小声で言った。この手の凶暴な狂人は、飛鳥のようにカウンターを乗り越えて襲撃を繰り返すだろうが、それでもその間に一秒は稼げる。一秒の防衛態勢は、本来なら殺される場合でも怪我で済むくらいの被害の軽減ができる。 私はカウンターの中の男に「ポリツィア、ポリツィア(警察)!」と恐ろしい顔で命じた。女が直ぐにヒステリーを起こし、パニックに陥り、やたらに命令することに世界の男共は馴れているから、ホテルの男は「シ、シ(はい)」と逆らわなかった。 気がつくと、凶暴な男は体格のいい頭のはげた派手なチェックのシャツを着た男に腕を取られていた。彼はホテルのカウンターの中にいた用心棒的な男だった。いっしょにいた友人のモンティローリ・富代さんによれば用心棒は「静かに、静かに」と言いながら宥めていたそうである。 その間海野さんはどうなったか、私は心臓が縮む思いだった。構造物の陰になっていて、様子が見えない。それでもシシリーの警察は三分ほどでパトカー三台が来た。海野さんはスキーの名手だったので、転び方がしなやかだったのだろう、肘に掠り傷を負っただけで済んだ。 ほっとすると、嬉しさで私たち皆は勝手なことを言った。誰もイタリア語がわからないので、男が叫んだ時、あれはふられた女の名前を呼んだのだろうと思った人もいれば、眼が覚めたらベッドの隣にいた女が消えているので怒って飛び出して来たのだろうと想像した人もいる。 富代さんによれば男はイタリア語で「外へ出ろ!」と叫んだのだという。彼女は万が一海野さんに後遺症が出るといけないから、空港のクリニックで診てもらうことを強引に勧めてくれた。こういう事故に対する闘い方も、財団職員の勉強だから、私がついて赤十字の部屋の前で医師を待った。医師の出勤時間は七時半。飛行機の出発は八時。飛行機を数分遅らせても、医師の診断書は書かせるという意気込みだ。外国というところはすべてが闘いの連続である。 富代さんの活躍のおかげで、警官といっしょに現れた医師は、明日も傷の消毒をしろ、レントゲンを撮れ、破傷風のワクチンも打て、とあらゆることを親切に指示してくれた。私が傍らで日本語で「破傷風は嫌気性の土中菌ですからね。ホテルの大理石の床になんかいやしませんよ」などと言っている。飛行機に滑り込んで乗れた時、よかったという思いが身に染みた。 しかし人間の運命は予測できないところがある。誰もいない、早朝の一流ホテルのロビーで、突然全く関係ない狂人に襲われるのだ。海野さんは運の強い青年だった。そのことは嬉しい。 ローマ乗り換えで帰国。 五月八日 九時、大蔵省の「行政の在り方に関する懇談会」。大蔵省の建物には今までに一度か二度しか入ったことがないので、地図を片手に緊張して会議室に辿り着く。 今日はまず委員が十分ほどずつ意見を述べるのが行われている。七月までに集中審議をやって答申を出すというやり方はだらだらしていなくて結構である。 委員の多くが、別におべっかではなくて「大蔵官僚は優秀だ」という世評を肯定するが、ほんとうだろうか、と思う。私は物書きの世界で、凄まじい独創性の「ありすぎる人」、つまり奇人に近い人までうんと見て来たので、一般的に霞が関的有能さは、事務能力にかけては比類なく優秀だと思うけれど、独創性や創造性にかけてはそれほど優秀だと感じたことがない。むしろ決まり切った反応しか示さない人が多くて困ったことが多い。 一番おもしろかったのは、次のようなエピソードを教えてもらったことだ。「あの人は学校を出ていないから」と大蔵省の人が言う相手が、東大法学部卒なので、「学校を出てないことなんかないじゃないか」と思ったら、旧制の一高を出ていないことだったという話。学歴にしがみつく人は、ほんとうは劣等感の塊なのだろうに。 五月九日 朝三戸浜へ向かう途中のマーケットで、長さ三センチくらいの小鰺を一箱三百円で買う。三センチでも精巧に鰺の形を整えたミニチュア。それを唐揚げにしながらレンジの前で、ひょいひょいと立ち食いをした。このおいしさ!
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