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最近になって私は、やっと病人を見舞うということの意味がわかりかけた。カトリックの修道院では、病人を見舞うことに第一の優先順位を持たせている。 第二次世界大戦中、アウシュヴィッツで他人の身代わりになって死んだマキシミリアン・マリア・コルベ神父は、修道院の中で毎日必ず病人を見舞い、その上に病人に仕事を命じた。「私たちに代わって、祈る、という最も大切な仕事をあなたたちに任せます」と神父は病人に言ったのである。病人は寝ていても仕事に組み込まれ、現役でいるのである。 見舞いが病人にとっても家族にとっても煩わしいという場合は別として、見舞いは励ましになる。殊に年寄りは、自分が見捨てられてはいないと思うだけで、幸福になれる。 神など信じない人にとってはお笑い草なのだが、神はどこにいるか、ということは大きな問題だ。私は神の居所がわかれば、その眼に触れないように、悪いことができるのに、と始終考えていた。 ところが神は遍在するという。宇宙のどこにでもいるのだ。自然はどの一隅でも神の視線の中に在って見守られている、と言う。神は遍在するのであって、偏在ではないのである。これは悪いことをしたい時には、ちょっと困る。神は、現世で哀れな状態の人、憎しみの対象になっている人の中にもれっきとしている、と言われた時も困り、神はあなたが今向き合っている人の中にいる、と言われた時は、もっと困った。 しかし私はそれからおもしろい人生を歩くようにもなった。生まれつきの根性の悪さは少しも直らないが、この世で少し私らしくないこともできるようになったのである。 「この人の中にも神がいる」と思うと、すべての人との関係は、あまり迷わなくて済むようになったからだ。もっとも神にだってイジワルをするという選択は残されているけれど。 大嫌いな姑や、胸が悪くなるような嫁の中にも神がいるのである。口もききたくない上役や、ぶらぶら遊んでいるどら息子の中にも神がいる、ということは偉大な発見だ。もちろん、病人の中にも、である。病人の中にいる神をなおざりにしていいか、ということだ。 これが私の、しいて言えば、人権に関する基本的な感覚である。 しかしだからと言って、急に嫌いな相手を好きになれるわけではない。それで、少し人間的な操作をする。相手の中の神の部分だけを見つめて、自分の「すべきこと」を決める。感情は別にして、である。旨くいかないことは多いけれど、それでもやるべき基本線は見えているわけだ。 先日会った友人二人はせっせとお葬式に行くのだという。そこで祈るのは自分の為にもいいという。生きている時は訪ねて行くことも大切だけれど、亡くなったらもうどうでもいい、どこでだって祈れるんだから、などと言っていた私は、またまた教えられてショックを受けている。
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