|
親潮の生まれ故郷 カムチャツカ半島は、オホーツク海の東の端である。「オホーツク」(OKHOTSK)。北方民族の命名したこの海の名称、その音の響きは、北の海の雄大さと、厳しさを連想させる。以前、北海道の新聞社の友人が私にこう言ったのを思い出す。「東京人はオーツク海と発音するけど、それでは北の海の大自然とロマンが伝わらない。オッ・ホーツクと言ってほしいね」と。 オホーツク海は、「知床旅情」が唱う“はるか国後”の向こう側、つまり千島列島の北側の北太平洋に付属する海で、西はサハリンと北海道、北はシベリアと接し、東に行くとカムチャッカ半島によって遮断され、ベーリング海と区分される。八月のカムチャツカの州都、ペトロパブロフスク(人口二十八万人)。ここで聞いた海の温度は冷たい。夏の表面水温は八度から十二度C。それもそのはずである。 北極の海ベーリング海からやってきた寒流は、カムチャッカ沖で、これまた冷たいオホーツク海流と合体し、千島海流(親潮)が誕生する。そして日本本土の太平洋岸を南下し、千葉県の銚子沖で南洋からやってきた黒潮の下に潜る。カムチャッカは日本にやってくる最大の寒流、親潮の原点なのである。 夏の海が冷たければ、夏の半島は涼しい。私の訪れたペトロパブロフスクはカムチャッカ半島の東岸で、親潮誕生の寸前のベーリング海に位置する港湾都市である。八月の第一日曜日の市街地。季節は夏の真盛りだというのに、街を散歩する人々は、みなコートやウインドーブレーカーを着込んでいた。 「晴れて日が差せば、二十五度Cぐらいまで上がることもあります。今がカムチャッカのベストシーズンです」とガイド兼通訳のアレクセイ君(二十六歳)。だが、生憎の雨模様。風が吹くと体感温度は十度以下で、セーターを着込んだのだが、まだ寒い。若い女性の服装はなかなかのもので、ファッション雑誌のグラビアからそのまま出てきたようなロシア美人も結構いる。一見高価風のウールのハーフコートを羽織り、クルブシまでおおうロングスカートか、パンタロンで決めている。この夏の流行色は、どうやら黒のようである。アレクセイ君の案内で、国営デパートをのぞいたら、韓国とアメリカの輸入物の大衆ファッションの既製服が人気の中心だった。 休日の街を散策するOL風の彼女たちの月給は、千二百〜千五百ルーブル。一ドルの公定レートは二十五ルーブルだから、一枚の服のために一カ月分の給料が飛んでしまうことだろう。 「一張羅だね」。信州大学に留学経験をもち流暢な日本語と英語を話すアレクセイ君にそういったら「エッ。何とおっしゃいました?」「SUNDAY BEST CLOTHES」。そう言い直したら「ハイ。そのとおりです」。 旧共産圏の国々を旅行していつもとまどうのは、取材したサラリーの額や、政府の公式経済統計で人々の生活水準を考えると、実態がわからなくなってしまうことだ。この半島のロシア共和国民の生活もそうである。 ちょっと古い統計資料なのだが、州政府発行の「一九九七年カムチャッカ州社会・経済状態」の日本語訳が私の手元にある。この統計によると全産業の労働者平均月収は二百六十五万ルーブル、「最低生活水準」なるものは、八十六万ルーブルと書かれている。ロシア経済は、九八年に一万分の一デノミネーションとルーブルの対ドル三分の一切り下げをしたので、現在のドル価値に直すと、それぞれ八十八ドルと二十九ドルだ。 魚が中古車に変身する仕組み 「カムチャッカの住民は年間一人当たり二十六リットルのウオッカと九リットルのワイン、そして三十リットルのビールを消費する」とも書かれている。北国のロシア人にとってアルコールは必需品であり、これにパンと脂の多い安肉を求め、野菜、ジャガイモはダーチャ(家庭菜園)で自給すれば食生活はOKだろう。 「最低生活費の六〇%が食費、一六%が公共事業のサービス料金」とこの政府の刊行物にはある。米ドル換算二十ドルもあれば一カ月飢えをしのぎ、ウオッカも飲める。庶民の住居費がほとんどただだから、切り詰めた生活をすれば、OLたちもファッショナブルな輸入服も買えるのだろう。 だが、カムチャッカの経済生活でどうしてもわからないことがある。それはどうやってマイカーを購入するか??なのだ。カムチャッカ州の自動車普及率はかなり高い。中流以上の家庭は必ずといってもいいほどマイカーをもっている。九〇%が日本の中古車である。 「僕の車は、九〇年製の日産セビルです。二十五万円でカムチャッカで買いました。ポンコツだから、日本ならほとんどただの車です。でもよく走る。車検ですか? 一応あります。ロシアは金よりもコネの国だから証明書はもってます」。アレクセイ君はそういう。「それにしても二十五万円とはべらぼうに高い」。「そんな高い車をどうして購入できるのか? 公式経済統計を見てもその答えは出てきませんよ。僕はこうやって、アルバイトでお金をもらうから買える。給料以外にお金もうけしている人は大勢います。平均すればカムチャッカは、公式経済の四倍ぐらいの国民所得があるんじゃないかなあ」 カムチャッカ半島の暮らし向きは決して貧しくはない。むしろ本土の平均的ロシア人より生活水準は高い。それを可能にしているのは、北の海の漁業資源である。この半島は、ヨーロッパロシアと地続きなのだが、陸路でここに到達するのは、まず不可能である。全く行けないわけではないが、“北極探検隊”の装備が必要だろう。だから半島といっても、実態は孤島である。船か飛行機しか便がない。魚がなかったら、この半島はモスクワにとって大変な経済的お荷物であったろう。漁業資源がほとんど視野になかった帝政ロシアの時代、カムチャッカを、アラスカ売却の抱き合わせの景品として、米国に譲渡する案もあったという。 州政府を訪問して聞いたのだが、カムチャッカ半島には、十二カ所の漁業コルホーズがあり、港湾労務者を含めると、毎日、四万人の人々がなんらかの形で海に出ているという。州統計によると、全産業の生産額の六五%は、漁業および魚の加工である。「ミンタイ」(ちなみに、これはロシア語)、すなわちスケソウダラの年間漁獲量は五十万トン以上で、日本漁船のそれよりも多い。このほか、日本の五分の一に相当する鮭とカニを捕獲している。 カムチャッカの漁業水揚げの半分以上が、日本に輸出される。日本漁船と北太平洋で落ち合い洋上取引するケースも多い。そこで得た売り上げの一部は、北海道など日本の中古車市場での買い付けにまわる。魚と中古車の双方でもうかるのだから、この半島の漁業関係者は金持ちである。 オックスフォード卒魚屋の娘 その一人。V・イワノフ氏。五十歳。ベーリング海で鮭漁船五隻をもつ漁業会社社長である。バルト海のカリーニングラードの水産大学を卒業、あえて僻地への赴任を希望、カムチャッカのコルホーズで働いた。共産党員ではないので、副議長止まりの栄達だったが、市場経済導入とともに民営漁業会社の社長になった。 「人間、金もうけだけではこの世に生を受けた意味がない。文明とは何か、そして、人間はどこから来て、どこへ行くのか。それを考える人間にならねばいかん。そう思って会社の利益のなかから、七人の従業員の子弟に、欧米留学の費用を出している」 イワノフ氏はそう言った。魚が中古車に化け、中古車が海外留学への橋渡しをする。三題咄のロシアン・ドリームではないか。 娘さんのナターシャさんを七年間英国に留学させた。オックスフォードの経済史を専攻、このほど学士号をとった。たまたま三日前に帰国したという彼女はいう。 「極東の聞いたこともない漁村から来たロシア人が、オックスフォードを卒業したと騒がれた。BBCのTVに出演要請があったが、“お前は見せ物ではない”と父にさとされて、とにかく帰国した。でも、私は本当にカルチャーショックよ」 「どっちのカルチャー。英国、それともカムチャッカ」「もちろんカムチャッカよ」。彼女は「英国の会社に職を見つけ、移住したいという。彼女のいう文化果つるカムチャッカと、魚のある限り、父親に高収益をもたらすカムチャッカ。そのギャップをどう埋めたらよいのか。それが父親であるイワノフ社長の頭痛の種だという。親潮の生まれ故郷であるカムチャッカ半島。やはり文化的にはまだ僻地なのである。
|
|
|
|