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東マレーシア、つまりボルネオのバタンアイという土地に、日本人の手によって作られているダムを見に行った時のことである。 その現場の所長は昔からの知人で私の土木の勉強の先生でもあったので、私の顔を見ると、優しく「何から見ます?」と聞いてくれた。しかし私が「闘鶏」と言うと、彼は渋い顔をした。現場の人たちが、闘鶏で金をするようなことがあるといけないから、闘鶏場だけは出入り禁止にしてあるという。 しかし私は私なりに取材の順序を考えていたのである。その日は土曜日で、闘鶏は土曜日の午後しかない、と聞いていた。とすれば、ダムの現場はいつでも見られるのだから、闘鶏が先なのである。小説家の取材は、使わなくても使っても、常にできるだけ周辺のものを取り入れなければならない。 闘鶏場は小さな屋根のある囲いだった。ゴム草履をはいた痩せた男たちが群がっていた。所長の手下が私に鶏券の買い方を教えてくれた。喧噪の中で引き出された二羽の鶏は、それぞれの飼い主の手で、足に入念に角度を考えられながら鋭利なナイフをくくり付けられる。誰が闘鶏の興業主なのかわからないままに、どちらに賭けるかを言うと、これまた見物人としか思えない男が金を集めに来た。 今、私は仕事上、競艇場へ行って時々券を買うのだが、天才的に当たらない。それだけ当たらないように券を買うのには技術と才能が要りますなあ、と褒められるほど当たらない。たまに行ってひょいと当てている人もずいぶんいるのに、不公平なことだ。 しかし私は闘鶏にだけは正真正銘、天才的な眼?があった。これ以上、折り目正しい所長の不興を長引かせるのも心ないことだったので、私はたった二回しか賭けなかったのだが、二回とも当てたのである。 私の選択の要点は簡単なものだった。私は痩せて、皮膚病で、みすぼらしく毛が抜けていて、体力の全くなさそうな方に賭けたのである。つまり負けて胸や腿を相手のナイフで引き裂かれた方の鶏は、どちらも肉づきと毛色がよく、体力のありそうな鶏であった。 鶏だって運命を少しは予想するだろう、と私は思ったのである。今までろくな餌も食べさせられず、痩せて飛び上がる力さえなさそうな鶏は、もしここで死んだら、現世でろくなことはなかったのだから、死んでも死にきれない思いになるだろう。だから死に物狂いで闘うだろう、と私は感じたのである。しかし現実には痩せた鶏の方が高く飛び上がって、蹴爪のナイフを有利に使って、体の重い相手を刺せたのである。 それは多分小説家の過剰な感情移入だったかもしれない。しかしいずれも勝って生き延びたのは、人生ならぬ鶏生を、追い詰められながらやっと生きているように見える方だった。人間にもそういう力がある。今日本人に全く欠けているのは、貧しさから来る、死に物狂いの力なのである。
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