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私は高齢者なのだから、今さら「年寄りにはわからない」などと言わなくてもいいのだが、このごろ時々、或る感覚の差をどうしたらいいのか、と思うことがある。 先日、教育改革国民会議へ出席するように、と言われた時のことである。 メンバーが発表されると、とたんに数紙の新聞からインタビューの申し込みがあった。中には「アンケート調査を実施いたしますからお答えください」というのもあった。 私の密かな感じでは、雑誌がアンケートで紙面を作ろうとし始めたら、その雑誌は既に発展的危機に陥っている。新聞は少し機能が違うと思うが、私は昔からアンケートというものに軽い嫌悪感を持っている。すべてのことに「そんなに簡単に答えられるくらいなら、小説など書くものか」という感じを持っているからである。だから相手がアンケートを企画するのは自由だが、私は返事を書いたことがない。 しかし私がこだわるのはアンケートそのものではない。どなたにせよ、相手が企画したことなのだ。会議でどんなことを言いますか、などと外部から先に内容を聞こうとするのは、やはり失礼であろう、という感覚が、まるで通用しなくなっているのである。 私が老舗の和菓子屋の主人で、お茶事に使う独特の趣向を凝らした菓子を作ることを引き受けたとする。それができ上がった朝に、別の客が来て「ほうこれは珍しいね。十個ばかり売ってくれないか」と言われても、私はそれを売らないのが信義というものだろう。 A社が私に小説を書くように言ったとする。そこへB社の編集長が来て、「今度の小説できましたか。どういう話です? ちょっと読ませてくださいよ」と言うのもやはり無礼だろう。その小説が見せ渋るにとうてい値しないほどの駄作であったとしても、である。 私は教育というものは、精神的な基盤と、具体的な方策と、二つが要ると思っている。これは車の両輪だ。精神的な面だけとやかく言っていてもだめだ。しかし基本的な精神の基盤がなければ教育は流行に流される。 一九八四年から三年間にわたって続いた臨時教育審議会にいた時もそうだったが、教育に関する会議は他のどれよりもおもしろい。今回の第一回の会議は精神論に終始したなどと書いた新聞もあったが、それは取材不足である。会議の後には、すべての委員が自由に新聞記者と語ったはずなのに。 昔の臨教審の時、私は義務教育の中で、死に対する準備教育を取り入れるべきだと提案したが、当時は一顧だにされなかった。しかし現実には、地方自治体や民間で、手作りの死の準備教育はすっかり普及した。うっかり文部省が動いて「個人の死まで国家が管理する気か」などと言われるより、民意に委ねた方がずっとよかったのだろう。教育の効果などというものも、本当は人間の浅知恵では計り切れない、と肝に銘じているつもりだ。
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