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先日、親しい友達と喋っているうちに、人間、どのような態度で仕事をするべきか、という話になった。 私は普通の人なら隠居する年になって、二つの仕事を体験することになった。小説を書くという自分一人でやる仕事と、財団の職員という組織に所属する仕事と、かなり方向の違う二種類の職場で半分ずつ働くことになったのである。 私の実感では、人はどうも自分の職場を深く愛さない方がいい、ような気がする。職場を愛し過ぎると、余計な人事に口出ししたり、やめた後も何かとかつての職場に影響力も持ちたがったり、人に迷惑をかけるようなことをする。 それでは今いる職場では、時間の切り売りをして、お茶を濁していればいいかと言うと決してそうではない。私は西欧人の、恐らくは主にキリスト教的な姿勢から来る「契約の思想」みたいなものが好きで、大人の判断で契約して働く場所を決めたら、その間だけは職場に忠実であるべきだと考えている。 世間は働かない人に報酬は払わないものである。だから職場にある時は十二分の働きを示して、組織にも喜んでもらい、それによって自分もいい気分になるのが、私は好きである。もっともこれは好みの問題だから、十二分に働く必要などない、最低限働いておけば十分、と考える人はその通りにするのがいいと思う。 とにかく、自分一人でやる仕事でなければ、やめたとたんに「後は野となれ、山となれ」と思うのが私は好きだ。 どんなに好きだった会社でも組織でも、自分の好みで動くものではないし、自分が未来永劫その成り行きを見ていられるものでもない。或る日、きれいさっぱりと身を引いた後は別の人に任して、そのことには関心を示さないのがいいと思う。 悪女の深情け、などという表現は、もう古くなってしまって、今では実感も薄くなっているが、親子にせよ、雇用関係にせよ、深情けというものは総じて人困らせなものである。人間というものは、一定の期間だけ、或ることに係わって暮らすが、時がくればまるでそこにいなかったかのように去って行かなければいけない。 世間には自分が忘れられるのを恐れている人が多いような気がする。銅像を作ったり、自分の名前のついた賞や記念事業をしたがったりする。 しかし私は、年をとったり、死んだりした時、忘れ去られることほどすばらしいことはないと思う。もし私が人殺しでもしていたら、被書者の人たちに、私のことは忘れてくださいと言ったって、忘れてもらえるものではない。だから忘れられるというのは、ほどほどに成功した人生の証拠である。 私の亡骸が土に返り、その上を吹き過ぎる風も、その土に生える野の花も、何一つ私のことは語らないし知らない。そういう結末は実に明るい。
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