共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 百万円の使い道  
コラム名: 私日記 第1回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2000/01  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  一九九九年十月二十六日
 十八日間にわたるアフリカ旅行の時差やいささかの疲れはまだ残っているが、今日は日本財団が新「社屋」を買う契約をする日である。
 この財団で働くようになってから約四年間、虎ノ門のビルは、昭和三十七年建設のかなりの老朽ビルで、私の部屋のテーブルの上に丸い赤色鉛筆を置くと、ゆっくりところころ転がるのを、私は時々ささやかな気晴らしにしていたこともある。しかし、耐震の保証がないとなると、若い職員を抱えているのだから呑気なことも言っていられなかった。
 新しく土地を買い、ビルを建てて引っ越してから今のビルを売ることまで、いろいろな方法が何度か討議されたし、私も今まで何度も候補地を見に行った。
 その一つは東京駅に近く便利ではあったが、第一印象から私たちの仕事には合わないような気がして、営業中のハンバーガー屋でさっさとハンバーガーを買ってそれだけ食べて帰って来たこともある。ホテル・オークラに近い土地は、私がかなり執着した物件だったが、向こうの言い値は、不動産鑑定士の出して来た値段より二割近く高かった。
 どんなにいいと思っても、財団という組織は第三者がはじき出した客観的な土地価格を大きく超えた値段で買ってはならない。私はさっさと諦めた。相続が数人に分かれているもの、抵当権がついているもの、いい土地なのだがどうしても少し狭いもの、など、多数あったが、どれも危険と妥協は一切避けてとにかく四年近くじっとしていたのである。
 それで決まったのが今度のNCRの持っていたビルである。NCRは「ナショナル金銭登録機」という名で私たちに知られているアメリカの大きな会社である。私の世代はその独特の音に懐かしい記憶がある。
 価格は土地と上物こみで百三十三億円。面積二千八十四平方メートル。そこに延坪一万七千七百五十六平方メートルの建物がついている。私が当然、上物は壊して更地にすると思っていたのは、今の日本財団の建物と同じ年に建てられていたものだからである。
 ところが売買が決まってからいろいろ聞くと、この建物は故吉村順三氏の設計による名作で、見に行ってくれた専門家が、「とても壊すには忍びない」と言う。私は本当に嬉しくなったが、何で同じ年の建物が、向こうはそんなに保つのかというと、当時一ドルは三百六十円時代だったのだろうか。ドルをしこたま持ったアメリカのお金持ちの会社は、金に糸目をつけずにまだ貧しかった東京に乗り込んで来て、アメリカの威力を見せるつもりでこのがっしりした建物を建てたのだろう。それに比べて日本財団のビルは、かなり貧しかった当時の日本で、並の建物だったというわけらしい。
 吉村順三氏の先見の明か、当時のアメリカは日本と比較にならないほど進んでいたのか、地下一、二階が最初から既に駐車場、地下三階はただの空間、地下四階が機械室である。私はこのただの空間の存在をまた大変喜んだ。私たちの財団は手を汚して体で働く組織だ。今でも中国へ送るコンピューター関係の指導書など四万冊を、整理のために地下室に保管している。私たちの仕事には、「仕切り場」が常に必要なのである。
 おまけに吉村順三氏の設計は、部屋と部屋とを簡素な間仕切りで仕切ってあるだけだ、という。普通の重厚な壁になっていないので、改装はいとも簡単らしい。その簡易間仕切りさえ、できれば古いまま使いましょう、と私は言った。
 調印は、朝十時から。人さまのお金を使うのだから、私は用心深くなる。小説家というものは、時々奇妙なことまで取材の結果、耳学問で聞き囓っている。だから専門の弁護士さんがおられるのに、その朝直前に登記所で再度登記簿謄本を閲覧して、事前に確認していたのと違う状態(新たな抵当権の設定など)が発生していないかどうかを見て頂き、それが確認されてから、ハンコを押す手順にしてください、とお願いした。
 ミラー社長に初めてお目にかかる。
「今日は嬉しくて悲しい日です」
 と挨拶の時に言われた。その気持ちがよくわかって、私は辛かった。私は返礼の挨拶の中で、
「私たちは、営利を目的にしている団体ではありません。あくまで人間的な仕事をする財団です。今日を、私たちの新しい友情の始まりの日にしたいと思います。いつでもここへいらして、世界にまたがっている私たちの仕事を見てください」
 とお願いした。
 それから初めて屋上に上がって、私のかねてからの計画が可能かどうかを見た。社屋は赤坂見附から新橋へ向かう大通りに面している。屋上のクーリング・タワーを利用して現在は大きな社名板がついているが、その部分に、一種の電光掲示板をつける予定でいる。今のところ私は心の中でそれを「データ・オンリイ」(データのみ)と呼んでいるのだが、世論の中で明確にしたいこと、マスコミなどが間違って放置していることを、データだけで示すつもりである。
 私たちの財団は思想的には、右にも左にも加担する必要はない。思想は個々人が決めるのが一番自然で楽しい。しかし間違ったデータが流布された時は、黙ってここで正しいデータだけを公表する。とりわけ世界が知るべき日本側のデータは、アメリカ大使館側に向けて英語で発信するつもりだ。この掲示板は、官庁や経済団体にも提供すればいいだろう。
 玄関で、車椅子用の斜路をつけるスペースがあるかどうかだけを見る。お誂え向きの場所があってほっとする。夕方の新聞記者会見の席で、新社屋購入の経緯をマスコミに伝える。ほんとうはこんなことで人を呼び集めるのは申しわけないのだが??財団はすべて徹底して公表するのが義務なので、仕方がない。
 
十月二十八日
 朝九時発のシンガポール航空で台湾へ向かう。
 台湾地震の直後に、日本財団は三億円のお見舞いを決定した。とにかく近隣で良識を持って国家経営をしている国には、災害があった時などには、できる限りの手助けをするのが当然だろう。それを日本のマスコミは、中国がいいと許可しているから、台湾の援助をしてもいいような書き方をしている。人を助けるのに、いちいち他国のご意見を聞く必要はないだろう。
 東京の亜東関係協会にお願いしてあったので、空港からその足で台中県豊原市へ二時間半ほどのドライヴ。関西の地震とは全く違って土地が隆起しているのには驚いた。なだらかな岡の住宅地と思われる所が、実は地震前は全くの平坦地だったという。現世で勧善懲悪を信じている人には、地震の被災地を見せるといい。全く何の理由もなくこのマンションは無事なのに、十メートルしか離れていない同じ型のマンションは斜めになって、数十人が死亡している。平等も人権も真っ青になるでたらめである。だから私たちは、せめてできることで支え合うほかはない。
 私はいつも反射的に、「偉い人」に会うのを避けるたちなのだが、地震のお見舞いがただお金を持っていけばいいということではないと思うので、あらかじめ李登輝総統に五分間だけお会いできたら、と申し入れてあった。以前二度ほどお目にかかったことはある。
 二十九日朝、総統府へ。台湾が自信のある政治をしている一つの証拠は、日本領時代の台湾総督府の建物をそのまま使っていることでも表されているだろう。国の威信にかけて昔の建物は壊す、などという発想は大人のものではない。建物より中に住む人たちの資質だけが、政治力に関係あるのだ。
 震災後、テレビに出ていらした時は、疲れた表情をしておられた李登輝総統は、すっかりお元気になられて、てきぱきと、今まで台湾にはなかった緊急救助隊を財団のお金で作りたい、と使用目的を明示してくださった。日本の消防庁や海上保安庁の救助の技術は、もともと高度のものだったと思うが、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件以後、さらに複雑な機能を持つようになった。犬を使わずに生きている人を探す探知機や、瓦礫の中に生存者がいるという想定の下に行う発破や玉掛けの技術など、素人の私が見学するだけでも「火消し」の技が現代に生きるとこうなるのだな、と感嘆する。そのための機材などを日本から買いたいと言われた。
 日本財団からの三億円は競艇ファンからの贈り物と言ってよい。義援金は、日本国政府から約五千万円と仮設住宅二千戸分の費用約二億五千万円。東京都が五百万円。アメリカが救助隊派遣費と緊急物資とで約二億七千万円。ほかにカナダが三千五百万円、ECが五千七百万円、中国が八千四百万円である。
 総統府からの帰りに、中正記念堂へ見学に寄る。私は一瞬、巨大な蒋介石総統の彫像の脇の衛兵を人形かと思った。何しろ微動だにしないのは当然としても、光線の加減で顔色も人間の生きた肌の色には見えなかったのである。親切な見物客のおじさんが、五分も待てば衛兵の交代式があるから見て行くように教えてくれる。旅先でこういう親切な人に会うと、ほんとうにほっとする。
 昼ご飯には、日本財団が南海文教基金会に対する支援の中から毎年招待している台湾の記者たちのうち、手の空いている人たちが十五人近く集まってくれた。世界中のどこの土地のどういう若者でもいい。ありのままの日本を見て行ってくれることを私たちは願っている。
 午後、名古屋行きの飛行機に乗る。明日、名古屋で講演があるので、東京から出直すより、この方が楽なのである。
 疲れているから、どこでもいい、空港から一番近いホテルに入って眠るつもりで予約をしておいたら、ほんとうに小さな、食堂もないホテルで前金を取られた。でも「プラスチック製のお風呂場」には、お湯も水も出る。テレビも壊れていない。狭い部屋中タバコの匂いはするが、ベッドにはダニもいない。フロントの横では、カップ・ヌードルを売っている。アフリカでは考えられない賛沢だ。
 おかげでひさしぶりによく眠れた。豪華なホテルに泊まっても、不眠症に苦しむ人もいるのに、私はほんとうに満ち足りた生活をしている。
 
十月三十一日
 昨日名古屋で講演を済ませた後、飛行機で長崎へ来た。毎年、体の不自由な方たちや高齢者とイスラエルを旅行しているが、その指導司祭の坂谷豊光神父がいらっしゃる東長崎カトリック教会のバザーがあるので、そのお手伝いに何人かが来ているのである。
 この教会はバブル時代の借金をしょっている。というと胡散臭い理由かと早とちりする人もいるのだが、坂谷神父の前任者の神父が、この教会にすばらしいイタリア製のステンドグラスを入れ、その借金を残して亡くなった。その後任の坂谷神父が、借金を返す責任を負うことになった。
 ほんとうに運命というものはおかしいものだ。坂谷神父はフランシスコ会に属しておられる。お金のことなど考えずに、今日生きるためだけの乞食坊主に徹するという思想の修道会だ。聖フランシスコは托鉢に出る仲間の修道士たちに今日の分をもらったら帰って来なさい、明日の分までもらって溜めておこうとしてはいけない、と諭した人だという。
 そういう修道会に入った神父が、巨額の借金の返済を考えることになる。
 私の同級生のシスター岡村初子は、小金井の聖ヨハネ病院を運営する責任者の一人で、ホスピス建設の時も募金に奔走した。その頃、私は昔の「岡村初ちゃん」に言ったことがある。
「あなたたちは、まあ、お金のことなんか一生考えないはずの修道院に入ったのに、私たち俗人だってあんまり扱わない億という単位のお金を集めるはめになるなんて、一体どういうことなのよ」
 その時、私はまだ日本財団の理事ではあったが、全く外側の人間だった。私は日本財団に「いささかも私に対する義理ではなく、もしホスピスに今後社会的な任務をお感じくださるようでしたら、ご一考ください」という形でシスター岡村を紹介した。そして日本財団は三億円の補助をしてくれ、今は特別の技術のいる全国の優秀なホスピス・ナースの養成に年間七千万円を出すようになった。
 バザーでは値段をつけるのが一仕事である。私は性格がいい加減だから、深く考えないでさっさと決めてしまう。それに私たちが値段を決めたって、売り子の「おじさん」「おばさん」が勝手にどんどん値引きしたりするから、値段はあってなきがごとし、なのである。それでも儲かるのは、ひとえに原価がゼロだからだ。このでたらめさがおもしろいのと、その「もの」が、欲しいと思う人の手に渡ることが楽しい。さらにその上で、長崎市は観光名所にもなるステンドグラスを残すことができる。教会の建物自体がよくないからこのガラスの芸術が完全には生きていないが、ステンドグラスは市の文化的な財産になるだろう。
 私は教会建築に対して、いつもやや偏見を持っている。イスラエルなどで荒野の直中でミサに与かると、神はこういう場所にこそおられるのであって、きんきらのゴチックやロマネスクの教会にはいらっしゃらないだろうなどと考える。しかし誰かが、こうして思い切って高価な芸術作品を買わないと、ステンドグラスの職人の芸は育たない。世界は一見不思議な連鎖反応で生きており、思いがけない成長を助長する。
 巡礼の旅行で障害者たちの世話をしてくださった鷲田小彌大先生も、美人のお嬢さんと北海道から来てくださり、なかなかの売り子の手腕。それを見ていて「大学の先生にしておくのはもったいない」「お嬢さんは先生に全く似ない美人」などという感想を述べる人もいて(私だったかもしれない)、皆で笑い転げる。
 
十一月六日
 朝九時、全トヨタ販売労働組合連合会から、今年も私たちの海外邦人宣教者活動援助後援会に五百万円の寄付を受けたので、私たちがどういうところにお金を出しているかの報告会に出席する。今度のアフリカの旅行で、チャドのギダリという田舎の診療所に対して、年間百万円ずつの支援をすることを内定して来た。内定というのは、今度の運営委員会に正式に掛けなければ決定したとは言えないからなのだが、できればその費用にも充てたいと思う。
 ギダリを訪れた日、患者の老女は、二頭の牛に引かせた牛車に横たわり、付添いの女性や息子と共に診療所にやって来た。車には薪、鍋、布団などの入院用のものが積んであった。救急車とか、健康保険などというものは聞いたこともない世界がこうして残っているのである。
 一般にイスラムの人たちの方が商才に長けているから高い薬も買えるが、こうしたクリスチャンは貧しい人が多いから、シスターたちも安い薬を出すようにしているという。それでも治療費や薬代を払えない人は後を絶たない。トヨタの労組の方たちからの寄付は、そうした村で生きるだろう。
 その後、羽田空港へ廻って札幌へ。北海道アイ・バンク創立三十周年記念の講演会。
 私の眼の手術をしてくださった馬嶋慶直先生も来ておられた。私の母は亡くなった後、角膜の提供をした。母は私の母だけあって、憎らしい口をきく老人であった。しかし母が角膜を提供して逝ったので、私たちは母が地獄に行くことだけはないだろう、と確信して、明るい空気の葬式を出せた。
 北海道はまだ暖かい。
 
十一月十日
 全日空ホテルに常陸宮殿下をお迎えして、日本財団の関連財団である「日本顕彰会」が、社会貢献者に「日本財団賞」を贈る式がある。
 この財団は、日本財団の前会長・笹川良一氏が、社会に貢献した人たちに感謝の意を表するために設立されたもので、表彰は今年が二十九回目。今年から少し内容を変えて、できるだけ今まで勲章、褒章、表彰などの対象にならなかった方々を選ぶことにした。対象は一応二十人。その代わり、副賞のお金を一挙に一人百万円に増額してもらった。
 昨日はいい日でもあった。十月二十二日、インドネシアのクアラタンジュン港からアルミのインゴット約七千トンを積んで行方不明になっていたアロンドラ・レインボー号(船籍パナマ)の日本人船長、機関長と、乗組の十五人のインドネシア人船員が、海賊によって救命筏に乗せられて漂流していたところをタイの漁船に救われた。このタイ漁船の船員を、私は来年の「日本財団賞」に推薦するつもりだ。
 この船については私たちは、日に数回、日本海難防止協会のロンドン・オフィスかシンガポール・オフィスから報告を受けて心配していたので、昨日から心が晴れたのである。
 今はSOSが発信されていても救援にいかない船もあるという。その分だけ航程が遅れると、親会社が「いい顔しない」からだという。
 そういう時代の中で、今回は日本郵船のLNG船「AMAN HAKATA号」の乗組員も人命救助を理由に表彰された。また七月二十三日、ハイジャックされた全日空機内で、死亡した機長と共に副操縦士として乗り組み、犯人を取り押さえるのに尽力し、飛行機の墜落を防いで五百余人の命を救った山内純二さんと運航乗務員六人も選ばれた。
 昨夜は遅くまでかかって今日の式場で読む挨拶の作文をした。なぜ賞金を百万円にしたかという理由も書いた。私はこういう通俗的なことが大切だと思う性格なのである。
 百万円あれば、浴室や台所が直せて気持ちよくなる。中古なら、程度のいい軽自動車が買えて、受賞者の足になる(私自身が軽のセコハンを最近買ってほんとうに便利な思いをしている)。孫や娘を連れてハワイ旅行に行ける。以上が百万円の理由である。
 パーティの時、ネバールで学校を作っているという荻野芳信さんが私に言われた。
「百万円頂けるというので、私は妻に『よしそれで風呂場を直そう』って言ったんです。すると妻は『ネバールでご褒美を頂くんだから、ネパールに使わなきゃだめ』と言うんです。それで二人は夫婦喧嘩をしましてね。まだそのままです。
 でも今日、曾野さんがご挨拶の中で、風呂場を直すのに使え、と言ってくださったので、これで帰ってから正々堂々と女房に言ってやれます」
 こういう方に賞と百万円を貰って頂いてほんとうによかった。
 夜、月刊『現代』を読んでいたら、角岡伸彦さんという方の『被差別部落の青春』という本の好意的な紹介が出ていた。その中で著者は、「部落が大きく変わって」きたことをあげ、「この本の取材でインタビューした女性(二十七歳)は『これまでまったく差別された体験はない』」と言ったという。
 もちろん差別する人が全くなくなるわけなどない。私たちは何によっても差別したがる醜い面を持っている。しかし私が「東京生まれ東京育ちの自分の体験から、部落問題でだけは差別した体験を周囲に見なかった」と一人称の体験を書いただけで、『サンデー毎日』はそういうことはあり得ないと断言して、私の文章を発表することを許さなかった。もっともそのおかげで、この「私日記」は『サンデー毎日』からこの雑誌に拾って頂けることになった。
 何事もすぐに答えを出さずに、世の中の流れの中で流されているのもいいという教訓なのかもしれない。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation