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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 記憶と国歌?明暗双方の歴史反映してこそ  
コラム名: 自分の顔相手の顔 254  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/07/13  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私は生活は簡素な方がいい、などと言いながら、つい食器だけは少しいいもので食べたくなる、というビョウキを持っている。とは言ってもケチなので、割ると番町皿屋敷のような思いになる高いものも使いたくない。
 すると茶道の教養のある知人が言った。
 「まあ、ほどほどに上等、という陶器をお買いになって、かわいがってよく使い込まれることですよ。五十年百年はあっというまに経ちますから、お孫さんの時代にはいい味が出て骨董になります」
 孫が食い詰めたら、そこでお売りなさい、という親心も秘かに含まれているのだろう、と私は察しながら畏(かしこ)まって聞いていた。
 骨董を買うのではなく、作る方法である。
 陶器は色も変わらない筈だ、と思っているが、その人によると、使い込むと陶器自身に味が出て来る。つまり見た目にも時間の重みがつく、というのである。いかにも東洋的な考え方のようでもあるが、西洋の骨董でも同じような時代の推移を感じることがある。好きな食器なら、自然によく使うから、そこで好ましい変化もはっきり見えるのだろう。
 君が代は国歌かそうでないか、という論争を聞いていると、私はふとこの話を思い出すのである。オリンピックやワールドカップで、「おたく(日本のこと)が優勝した時には、どの曲にしますか」と開催国に聞かれた時、日本人の多くが、これがいい、これしかない、これが昔からそうだということになっています、というものが、つまり国歌なのである。それが比較的、使いこまれた曲で、国民の歴史を表すのだから。
 「上を向いて歩こう」は確かに一世を風靡した作品だが、すべての歌は、歌う時と場所を選ぶものだ。国を代表する国歌の歌詞として「涙がこぼれないように」というのは、私などは少し恥ずかしいが、最近の若い人たちの好みによれば「いいじゃん」ということなのかもしれない。新しい国歌を作るということになると、それこそ大騒ぎで、何に決まっても誰かが不満を持つことはまちがいない。
 国歌に限らず、アルバムの写真にも、茶碗にも古着にも、私たちは思い出を持つ。一家が幸福で幸せだった記憶だけではない。アルバムの写真は普通なら悲しい記憶も残す。死別した人が微笑んでおり、災害に遇う前の家が建っている。写真の中の人が病んでいたり、合格の直後で笑み零(こぼ)れていたりする。よいことも悪いことも含めて、それが歴史なのだ。
 国歌も同じではないか、と私は思う。明るい輝きばかりではない。暗い記憶、明るい要素、の双方の歴史を反映したのが国歌なのである。なぜなら国家に対しては、すべての人が必ず少しずつその時代を作った責任を負っており、私たち自身が歴史の当事者なのだから、それが自然なのである。
 今法律で「君が代」が国歌と無理に決めなくても、社会と国民が自然に歌うべき国歌を選んで行くだろう、と私は思っている。
 



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