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私は生活は簡素な方がいい、などと言いながら、つい食器だけは少しいいもので食べたくなる、というビョウキを持っている。とは言ってもケチなので、割ると番町皿屋敷のような思いになる高いものも使いたくない。 すると茶道の教養のある知人が言った。 「まあ、ほどほどに上等、という陶器をお買いになって、かわいがってよく使い込まれることですよ。五十年百年はあっというまに経ちますから、お孫さんの時代にはいい味が出て骨董になります」 孫が食い詰めたら、そこでお売りなさい、という親心も秘かに含まれているのだろう、と私は察しながら畏(かしこ)まって聞いていた。 骨董を買うのではなく、作る方法である。 陶器は色も変わらない筈だ、と思っているが、その人によると、使い込むと陶器自身に味が出て来る。つまり見た目にも時間の重みがつく、というのである。いかにも東洋的な考え方のようでもあるが、西洋の骨董でも同じような時代の推移を感じることがある。好きな食器なら、自然によく使うから、そこで好ましい変化もはっきり見えるのだろう。 君が代は国歌かそうでないか、という論争を聞いていると、私はふとこの話を思い出すのである。オリンピックやワールドカップで、「おたく(日本のこと)が優勝した時には、どの曲にしますか」と開催国に聞かれた時、日本人の多くが、これがいい、これしかない、これが昔からそうだということになっています、というものが、つまり国歌なのである。それが比較的、使いこまれた曲で、国民の歴史を表すのだから。 「上を向いて歩こう」は確かに一世を風靡した作品だが、すべての歌は、歌う時と場所を選ぶものだ。国を代表する国歌の歌詞として「涙がこぼれないように」というのは、私などは少し恥ずかしいが、最近の若い人たちの好みによれば「いいじゃん」ということなのかもしれない。新しい国歌を作るということになると、それこそ大騒ぎで、何に決まっても誰かが不満を持つことはまちがいない。 国歌に限らず、アルバムの写真にも、茶碗にも古着にも、私たちは思い出を持つ。一家が幸福で幸せだった記憶だけではない。アルバムの写真は普通なら悲しい記憶も残す。死別した人が微笑んでおり、災害に遇う前の家が建っている。写真の中の人が病んでいたり、合格の直後で笑み零(こぼ)れていたりする。よいことも悪いことも含めて、それが歴史なのだ。 国歌も同じではないか、と私は思う。明るい輝きばかりではない。暗い記憶、明るい要素、の双方の歴史を反映したのが国歌なのである。なぜなら国家に対しては、すべての人が必ず少しずつその時代を作った責任を負っており、私たち自身が歴史の当事者なのだから、それが自然なのである。 今法律で「君が代」が国歌と無理に決めなくても、社会と国民が自然に歌うべき国歌を選んで行くだろう、と私は思っている。
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