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大東亜戦争の時、物資がなくなったので、終戦後の私は、うちの「応接間」と称するたった一間の洋室にかけてあった茶色いビロードのカーテンでオーバーを作ってもらった。 厳密に言うと、カーテンのひだの山になっているところだけ、色が褪(あ)せていたので、オーバーを裁断する時、その褪色(たいしよく)した部分を避けても、まだ色むらがあった。それでもミドルティーンだった私は、そのオーバーを大切にしていた。ビロードというだけでぜいたくなもので、小公女になったような気さえしていたのである。 それ以後しばらくの間、私は、自分の身の廻りに物をふやし続けた。便利なもの、きれいなもの、ぜいたくなもの、はいくらでもあったし、また発展し続けた日本経済は、さらにいいものを作り続けたので、私はほしいものだらけだった。 しかし或る時期から、ということは、私が完全に老年にさしかかってから、私は急にものを減らすことに興味を持ち始めた。というと体裁がいいが、私は長いこと仕事ばかりしていて、家事を疎(おろそ)かにしたから、その結果、整理が悪い状態が何年も続いたのであった。 いらないものは捨て、教会のバザーに出し、ガレージセールとやらをやっている友人の娘に売ってもらって寄付のお金にし、その結果、戸棚の幾つかはがらがらになってきた。ついでに冷蔵庫の中身も徹底して無駄なく食べるようにしたので、突き当たりの壁が見えるくらいになった。私は残りものを利用しておかずを作ることが大好きなのである。 昔は金持ちはお倉いっぱいにものを持っている人だと思っていた。しかし今では空間があると光がさしているように見えるし、よく風が通って病気にならないような気さえする。自分が充分なだけ使わせてもらえば、それ以上いらないので、その線をはっきりさせて、単純生活をしたいと思う。 その代わり、私は磨いたり、継いだり、塗り直したり、研(と)いだりすることが大好きになった。銀器はすぐ黒くなるので昔は嫌いだったが、今は仕事の合間に磨きこんで使うのが大変好きになってきた。真鍮(しんちゅう)の花瓶もきらきらに光らせ、陽射(ひざ)しで荒れた窓辺の木部にはワックスを塗り、そういう手入れをしていると、家の中は落ちついて暖かい空気になる。 長い年月、遺跡を歩いていて、時々小さな石の破片を持って帰ってきていた。もちろん遺跡を壊して採ってきたのではない。ほんとうにいくらでも落ちているものだ。それらの数千年、数百年の歴史の重みを持った破片を生かすために、最近私なりの遺跡盆景を作った。一メートル二十センチ×三十センチ、深さ五センチのお盆の上に、白砂を敷いて、その上に出土品の破片を置いた。古道具屋で目方売りしているローマン・グラスの破片など散らすと、その光はただごとではない。 年を取ると、遊び方までうまくなる、と一人で思いこんでいるのである。
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